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![]() ファルスについて |
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作品ID | 61138 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本文化私観 坂口安吾エッセイ選」 講談社文芸文庫、講談社 1996(平成8)年1月10日 |
初出 | 「青い馬 第五号」岩波書店、1932(昭和7)年3月3日 |
入力者 | 持田和踏 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2023-10-20 / 2023-10-16 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振って逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるものとは考えていない。然し一般には、笑いは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ危く抹殺を免かれている位いであるから、道化の如き代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である。と言って、それだからと言って、私は別に義憤を感じて爰に立ち上った英雄では決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが。
ところで――
(まず前もって白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当っても、何一つとして先人の手に成った権威ある文献を渉猟してはいないため、一般の定説や、将又ファルスの発生なぞということに就て一言半句の差出口を加えることさえ不可能であり、従而、最も誤魔化しの利く論法を用いてやろうと心を砕いた次第であるが、――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であろうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まって卒倒するかも知れないのですが――)
扨て、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当っても、敢て世論を向うに廻して、「ファルスといえども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言われるのも聊か心外であるために、先ず、何の躊躇らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と看做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけようとするものである。
次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたっての道化に就て語りたいために、(そして、私は言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言わして頂くためにも――)、仮りに悲劇、喜劇、道化に各々次のような内容を与えたいと思う。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打ちによって、その思いありげな裏側によって人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。
と言って、私は、A・Bのジャンルに相当する文学を軽視するというのでは無論ない。第一、文学を斯様な風に類別するということからして好ましくないことであり、全ては同一の精神から出発するものには違いあるまいけれど――そして、それだから私は、道化の軽視される当節に於て(敢て当今のみならず、全ての時代に道化は不遇であったけれども――)道化も亦、悲劇喜劇と同様に高い精神から生み出されるものであって、…