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童貞
どうてい
作品ID61139
著者夢野 久作
文字遣い新字新仮名
底本 「夢野久作怪奇幻想傑作選 人間腸詰」 角川ホラー文庫、角川書店
2001(平成13)年3月10日
初出「新青年 第11巻第10号」1930(昭和5)年8月
入力者持田和踏
校正者The Creative CAT
公開 / 更新2023-03-11 / 2023-02-28
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「俺はここで死ぬのかな……」
 そう思いつつ昂作はヒョロヒョロと立ち止まった。眼の前の電柱に片手を支えると、その掌に、照りつけた太陽の熱がピリピリと泌み込んだ。
 彼は今にも倒れそうに咳き入りつつ、地面に映る自分の影法師を見た。……蓬々と延びた髪の毛……無性ヒゲ……ボロボロの浴衣……結び目をブラ下げた縄の帯……瘠せ枯れた腕……灰色のホコリにまみれた素跣足……そんなものの黒い影が、一寸法師のように、眩しい地面に這いついていた。
 その足下を見詰めながら彼は今一度……
「俺はここで死ぬのかな」
 と思いつつジッと眼を閉じた。その刹那に彼は、彼を載せて回転する大地の巨大さをシミジミと感じた。そうしてその大地の涯の、遠く遠くの青空に、いくつかの白い、四角い大文字が浮かみ顕われて、次から次へと行列を作りながら、地平線の下へ落ち込んで行くのを凝視した。

……天才的ピアニスト……
……童貞……
……肺病……
……乞食……
……死……

 それは彼自身だけが知っている彼自身の運命の標示であった。生まれ付きの気弱さから、音楽以外の何ものも知らずに死んで行きたいと願った彼の全生涯の象徴であった。
「自分の弱い肉体を亡ぼすものは異性でなければならぬ。結婚でなければならぬ……自分の弱い魂を生かしてくれるものは音楽よりほかにあり得ないのだ」……と信じ切って固く眼を閉じ、耳を塞いで来た彼……そうして自分の病気を見棄てた医師、親同胞、友達、恩師、若い男女のファンたち、社会の人々のすべてからコッソリと逃げ出して、タッタ一人で大地に帰るべく姿を晦ましてしまった彼の唯一の誇り……世にも尊い……世にもみじめな童貞の誇り……それを思い出すたんびに彼の瞼の内側はポーッと熱くなるのであった。……今もそうであった……。
「……ネエ……チョイト……」
 という艶めかしい声を、耳のすぐ傍で聞いたように思ったので、彼はハッとして眼を見開いた。うるんだ瞼を片手でコスリまわして、暗くなりかけた意識を取り返しつつ、オズオズとそこいらを見まわした。
 彼が立ち止っているのはどこかわからないが、烈しい日光が一パイに照りつけている狭い横町であった。遠くに電車の音が辷って行くきりで、人通りも何もなく、真夏の日盛りの静けさが耳の底に泌み入るほどシンカンとしていた。
「……死際の幻覚かな……」
 微かにそう思いつつ彼は今一度力なく眼を閉じたが、間もなく今度は鼻の先に、何とも言えない上品な芳香がフンワリと波打って来たように思ったので、また、ハッとして眼を開いた。すると、それとほとんど同時に、眼の前の暗い横路地から眩しい、美しい色彩の一カタマリが音もなく辷り出て、眩しくユラユラと立ち止った。
 よく眼を定めてみると、それは平凡な白地のワンピースを着流した令嬢であった。青い帽子を冠って、白い靴下に白靴を穿いて、黒の地味な洋傘を持っ…

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