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スタンダアルの文体
スタンダアルのぶんたい |
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作品ID | 61162 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本文化私観 坂口安吾エッセイ選」 講談社文芸文庫、講談社 1996(平成8)年1月10日 |
初出 | 「文芸汎論」1936(昭和11)年11月1日 |
入力者 | 持田和踏 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2024-01-23 / 2024-01-09 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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私はスタンダアルが好きであるが、特に私に興味のあるのは、彼の文体の方である。
凡そ人間の性格を眼中に入れなかった作家といえば、スタンダアルほどその甚しいものはない。人間を性格的に把握しようとすることが彼の作品に皆無である。
然し彼には人を性格的に把握する能力が欠けていたわけではない。欠けているどころか人並以上に眼光が鋭く性格把握の能力が勝れているのは「バイロン論」を読めば分る。バイロン論と言ったって、実はバイロンとの交遊録で、バイロンの性格や人物だけを書いている。
結局彼は、文学の野人であった。彼には伝統も不要であった。彼の文学の興味は非常に筋書的な線的な興味で、性格描写なぞにはてんで情熱がわかなかったのであろう。
従而彼の小説の人物は固定された性格を全く与えられてはいないわけだが、事件から事件へ転々と動かされて行くうちに、いわゆる性格なぞというケチな概念とかけはなれ、実に歴々と特殊な相貌を明らかにする。彼の作中の人物は性格が何物をも限定せず、事件が人間を限定し同時に発展せしめるという無限の可能と動きの中におかれている。従而彼の文章はそれにふさわしく特殊である。
彼の小説は一行ずつ動いて行く。それも非常に線的な動き方をするのである。百行のうちに二十人くらいの人物が現れ、なんの肉体もなく線のように入りみだれて動きまわっていると思うと、突然それらの人物が肉体をもち表情をも恰も実の人物を目のあたりに見る明瞭さで紙上に浮きでていることに気付かなければならないのである。
文学にはいつも奇蹟が必要だ。然しスタンダアルのこの奇蹟は奇蹟中の奇蹟であって、スタンダアルの天才にだけ許されたものであった。直接模倣することは無意味である。
私は従来の文学に色々の点で不満を持つが、その最も大なるものは人間や人間関係の把握の仕方の惨めなまで行きづまったマンネリズムに就てである。人間の性格を把握する認識の角度なども阿呆らしく、そういう約束の世界に住みなれてみると結構そういう約束ごとの把握の仕方が通用し、実在界を規定するから益々もって阿呆らしい。
もとよりスタンダアルの描いた人間は新鮮ではない。彼は性格を主目的に描かなかったとはいえ、結局最後に性格が滲みでてくるわけであるが、それらの性格も新鮮でない。別に新鮮な角度から認識されてはいないのである。
けれども私に興味のあるのは、こういう文体も可能であるということであった。全然性格を無視した人間の把握の仕方、常に事件の線的な動きだけで物語る文体、そういうものが百年前にもあったのである。それが直接私の文学の啓示にはならないまでも、そういう荒々しい革命的な文体すら可能であるということを知ると、私は自分の文学の奇蹟を強く信じ期待していいような元気のあふれた気持になる。私も人間の性格なぞはてんで書きたいと思わない。然しスタンダアル…