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大阪の反逆
おおさかのはんぎゃく
作品ID61169
副題――織田作之助の死――
――おださくのすけのし――
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「日本文化私観 坂口安吾エッセイ選」 講談社文芸文庫、講談社
1996(平成8)年1月10日
初出「改造 第二八巻第四号」1947(昭和22)年4月1日
入力者持田和踏
校正者noriko saito
公開 / 更新2023-01-10 / 2023-01-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 将棋の升田七段が木村名人に三連勝以来、大阪の反逆というようなことが、時々新聞雑誌に現われはじめた。将棋のことは門外漢だが、升田七段の攻撃速度は迅速意外で、従来の定跡が手おくれになってしまう(時事新報)のだそうで、新手の対策を生みださぬ限り、この攻撃速度に抗することができないだろう、と云う。新らたなるものに対するジャーナリズムの過大評価は見なれていることだから、私は必ずしもこの評判を鵜のみにはしないが、伝統の否定、将棋の場合では定跡の否定、升田七段その人を別に、漠然たる時代的な翹望が動きだしているような気がする。
 織田作之助の二流文学論や可能性の文学などにも、彼の本質的な文学理論と同時に、この時代的な翹望との関聯が理論を支える一つの情熱となっているように思われる。
 織田は坂田八段の「銀が泣いてる」に就て述べているが、私は、最初の一手に端歩をついたという衒気の方が面白い。第一局に負けて、第二局で、又懲りもせず、端歩をついたという馬鹿な意地が面白い。
 私はいつか木村名人が双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると最後まで押されて負けてしまう。名人だなどと云っても序盤で立ちおくれてはそれまでで、立ち上りに位を制することが技術の一つでもあり名人たるの力量でもあるのだから、双葉の如く、敵の声で立上り、敵に立上りの優位を与えるのが横綱たるの貫禄だという考え方はどうかと思う、ということを述べていた。
 序盤の優位ということが分らぬ坂田八段ではなかろうけれども、第一手に端歩を突いたということは、自信の表れにしても軽率であったに相違ない。私は木村名人の心構えの方が、当然であり、近代的であり、実質的に優位に立つ思想だと思うから、坂田八段は負けるべき人であったと確信する。坂田八段の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けているのだ。それ故、事実に於て、その内容(力量)も貧困であったと私は思う。第一手に端歩をつくなどというのは馬鹿げたことだ。
 伝統の否定というものは、実際の内容の優位によって成立つものだから、コケオドシだけでは意味をなさない。
 然し、そのこととは別に私が面白いと思うのは、八段ともあろう達人が、端歩をついたということの衒気である。
 フランスの文学者など、ずいぶん衒気が横溢しており、見世物みたいな服装で社交界に乗りこむバルザック先生、屋根裏のボードレエル先生でも、シャツだけは毎日垢のつかない純白なものを着るのをひけらかしていたというが、これも一つの衒気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであったのだろう。
 藤田嗣治はオカッパ頭で先ず人目を惹くことによってパリ人士の注目をあつめる方策を用いたというが、その魂胆によって芸術が毒されるものでない限りは、かかる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の現身などはタカの知れたものだ。深刻ぶろうと、茶化そうと…

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