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蠣フライ
かきふらい
作品ID61380
著者菊池 寛
文字遣い新字旧仮名
底本 「菊池寛全集 第三巻」 高松市菊池寛記念館
1994(平成6)年1月15日
初出「文藝春秋」1927(昭和2)年1月号
入力者葉桜めのう
校正者友理
公開 / 更新2023-12-26 / 2023-12-08
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 汽車が、国府津を出た頃、健作は食堂へは入つて行つた。寝るまでの中途半端の時間なので、客は十四五人もあちらの卓や此方の卓に散在してゐた。大抵は、二三人づれでビールや日本酒を飲んでゐた。健作は、晩飯を喰つてゐないので、ビフテキとチキン・ライスを註文した。
 健作は、チキン・ライスを喰つてしまつてから、ふと気がついたのだが、健作が坐つてゐる席とは一番遠い端に、此方へ背を向けて、坐つてゐる女が、愛子に似てゐることだ。
 肩の容子や、襟筋や着物の好みが、愛子を想ひ起さずにはゐられなかつた。愛子とは、もう五年以上会つてゐなかつたし、彼女が、商科大学出の秀才と結婚したと云ふ以外は、何もきいてゐないのだが、しかし彼女の後姿などはどんな場合にでも、思ひ出せないことはなかつた。その上、商科大学出の秀才らしい男が彼女とさし向ひで、食事をしてゐた。
 腰かけてゐるために、背の高さは、分らなかつたが、立ち上つたら、スラリとするに違ひない上半身を持つてゐた。フォークの使ひ方などが、十分は分らないが、愛子らしい手さばきだつた。
 健作は、愛子と一緒に、幾度も食事をした。だが、そんな場合、彼女位、はにかみ屋はなかつた。どんなに、お腹がすいてゐても、健作の前では、何一つ手をつけなかつた。幾品も取つた料理に、全然箸をつけない時があつた。
「何か、お上りなさいよ。お腹が、すくでせう。」
「いゝえ。」
「をかしいな。でも、僕はお腹がすくから食べますよ。」
「えゝ。どうぞ。」
 彼女は、頑強に何も喰べなかつた。
 だが、その中に彼女でも、やつぱり喰べる料理が、あるのに気がついた。それは、蠣フライだつた。はにかみ屋の彼女も蠣フライだけには、手をつけた。
「わたし、蠣は大好きよ。蠣フライならいくらでもいたゞくわ。」
 さう云つて、御飯をたべずに、彼女は蠣フライを喰べた。
 健作は、彼女と一緒にレストラントへは入るときは、一番に訊いた。
「おい。蠣フライは出来るかね。」
 そして、出来るときくと安心して、は入つた。
 春が来て、蠣のない季節になると健作は彼女と一緒に、食事をするのに困つた。だが、彼女は食事をしないことにちよつとも苦痛を感じないらしかつた。御飯の代りに彼女は、絶えず、デセールやチョコレートを喰べてゐた。

 彼女と、別れてからも、健作は蠣フライを見るごとに、彼女を思ひ出した。彼女が、何処かで、きつと蠣フライを喰べてゐるに違ひないからだつた。
 愛子らしい後姿を見て、健作は、すぐ蠣フライのことを思ひ出した。健作は立ち上つて、その傍へまで行つて愛子か、どうかを確める必要はなかつた。確めたところで、たゞお互に心を擾し合ふだけだつた。また、そのことで幸福らしい彼女の夫婦生活に少しの陰影でも投げることは、いやだつた。
 やがて、愛子らしい女は、立ち上つた。背丈は、愛子よりも少し高いやうに思つた。だが…

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