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坪田譲治の味
つぼたじょうじのあじ
作品ID61383
著者尾崎 士郎
文字遣い新字新仮名
底本 「現代日本文學大系 32 秋田雨雀 小川未明 坪田譲治 田村俊子 武林夢想庵集」 筑摩書房
1973(昭和48)年1月5日
入力者持田和踏
校正者noriko saito
公開 / 更新2024-03-03 / 2024-03-02
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の文壇生活をとおして、交遊関係の、もっとも古いのは坪田君であるかも知れぬ。大正十一年か、十二年か、――数えて、そろそろ四十年になる筈だ。今まで、そんなことを考えてみたこともなかったが、うかうかと時が過ぎてしまったらしい。人生五十という標準年齢を対象的に考えると、私たちはもう人生の外へ一歩踏みだしたかんじでもある。文壇生活四十年なぞというのは、自慢にならぬどころか、自ら、無為、無能、卑怯未練、不才、臆病、停滞、逡巡、――つまり、凡夫のあさましさを語るに落つるものでもあろうか。
 こんな物のいい方は尠からずキザッぽくもあるが、とにかく、私と坪田君とは年齢において十年の開きがあるとはいえ、大正大震災の前後頃から、三十余年の交遊を重ねているということは、仮りに僕等が小説家ではなく、坪田君が市井の下駄屋の主人、僕が居酒屋の親爺であったとしたところで、終始一貫、太平の逸民として過したわれ等の青春は愉しきかぎりであった。
 坪田君が、二年前、私のことを回想して書いた文章の中に次のごとき一節がある。「(前略)尾崎士郎氏を知ったのは大正十三年のことである。私が三十四で彼が二十六であった。その頃、誰かが私に伝えたことがある。『尾崎がまるで君を親戚みたいにいっていたぞ』これを聞くと田舎者の私は郷里の親類づき合いのことを考え、お彼岸には草もちや、おはぎを重箱に入れて尾崎家へ持ってゆこうと思った。その思いが、そのとき私を大へん楽しくさせた。然し、その後、一度もそんなものを持っていったことはない。私たちの交りは淡として水のごとし。君子の交りである」
 私は、いつか、ずっと年古りてから坪田君のことを、じっくりと思いだし、彼との交遊の楽しさを幾つかの時代に分類して書いてみたいと思ったことがある。すでに三十年前の話である。もちろん、私は坪田君よりも長く生きることを信じていた。当時は彼のいうがごとく、彼が三十四で私が二十六だとすれば、彼が四十四の歳には私はまだ三十六である。彼が五十四で私は四十六。彼が六十四になると、私はやっと五十六になるわけであるが、そんなに長く人間が生きられるなぞということは夢にも考えなかった。先ず、いかに慾ばって考えたところで、私が四十六、彼が五十四というあたりで、彼のために弔詞をよむ日が必ず来るであろうと思っていた。思っていたどころではない。実をいえば、私は心ひそかに弔詞の文章をさえ考えていたのである。
「坪田譲治、逝けり。逝くことの何ぞ悲しき。一片の孤舟、三途の河を渡らんとするに際し、われ岸頭に立って慟哭ついに自ら禁ずること能わず。われ二十余年(当時の感想)の生涯、この友情によって大過なきを得たりとすれば、今や何を以て生きんとする乎。彼亡き今日よりの春秋朝夕、この寂寞を抱いてわれ何処にか往かん。ああ譲治よ、斯心若し君が胸に幽音を伝うるものあらば、全身全霊の情熱を託…

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