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![]() 『ほくえつせっぷ』のかがく |
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作品ID | 61425 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字新仮名 |
底本 |
「百日物語」 文藝春秋新社 1956(昭和31)年5月20日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 木下聡 |
公開 / 更新 | 2024-07-04 / 2024-07-01 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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『北越雪譜』は、越後鹽澤の人、鈴木牧之翁が雪に埋れて暮した自分の周圍の生活について、折にふれて書きためた文章を、晩年において纒めたものである。議論もなく、所謂卓見もないが、當時における雪國の庶民の生活記録の集成として、まことに珍重すべき文獻である。
本來は民族學の資料として、價値のあるものであろうが、所々に[#挿絵]入してある「科學的記述」の中にもいろいろ面白いものがある。もちろん術語は、今日の科學の言葉とはちがうが、考え方も亦知識の方も、現代の氣象學とそっくりな議論が時々書いてあって、非常に興味が深い。
最初に『地氣雪と成る辯』があるが、その中に「太陰天と地との間に三ツの際あり、天に近きを熱際といひ、中を冷際といひ、地に近を温際といふ」とあって、その三際の間に生ずる氣象現象の説明がしてある。これなども、太陰天を空間、熱際を成層圈、冷際を對流圈の上層、温際を下層とすると、今日の氣象學と同じ記述になる。
「地氣は冷際を限りとして熱際に至らず」「雲温なる氣を以て天に昇り、かの冷際にいたれば温なる氣消て雨となる。湯氣の冷て露となるが如し」「雲冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒甚しき時は雨氷の粒となりて降り來る。天寒の強と弱とによりて粒珠の大小を爲す」というような記述は、術語さえ變れば、そのまま氣象學の教科書に入れられる。
「雪の形」の章では、まず初めに雪の結晶と雪片との區別をはっきりさせている。「人の肉眼を以雪をみれば一片の鵞毛のごとくなれども、數十百片の雪花=ゆき(結晶)を併合て一片の鵞毛(雪片)を爲なり」と書いてある。五年くらい前に、國際雪氷委員會で、米加瑞日の小委員會がきめた、クリスタルとフレーキとの定義は、この文章をそのまま英譯したものである。
雪の結晶の形が「奇々妙々」なることの説明として「其形の齊からざるは、かの冷際に於て雪となる時冷際の氣温ひとしからざるゆゑ、雪の形氣に應じて同じからざるなり」と言っている。雪の結晶の形は、氣温と過飽和度とによって決定されるという結論に達するまでに、私たちは二十年近い年月を費した。しかし牧之翁は、百數十年の昔に於て、既に「天寒の強と弱とによりて粒珠の大小を爲す」こと、及び「冷際の氣温ひとしからざるゆゑ」雪の形が「氣に應じて」いろいろに變化することを説いている。これが瀧澤馬琴の時代に、越後の田舍町で生涯を送った、一質屋の主人がもっていた科學なのである。小學校の理科教育も、もちろん受けてはいない。
日本人の科學性ということが、近年いろいろ議論されている。そういう議論の中で、とくに民族性との關連を論ずる場合などには、この牧之の本なども一つの資料とすべきであろう。