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或る一世の話
あるいっせいのはなし
作品ID61430
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2026-03-07 / 2026-03-06
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 アメリカでは社會保障制度が、なかなか巧く行っている。ほとんどどんな職業についていても、六十五歳以上になって引退すると、死ぬまで毎月七十ドルないし百ドルくらいの年金が貰える。その時十八歳未滿の扶養者があると、一人につき三分の一だったか附加される。また細君が六十五歳を越すと、三分の二くらい増額になる。要するに國民の全部に恩給がつく制度になっている。
 もっとも政府が無料でこういう保障をするのではなく、勤勞者は社會保障の積立金を拂う必要がある。しかし半額は傭主の負擔であり、一生の間に一年半以上何處かで働いて、その間その積立金を拂ったという實績があればよいので、條件は非常にゆるやかである。まあ普通に働いていれば、誰でもその恩典が受けられるといってよい。店をもっている人でも、實際に雇人並みに働いていれば、勤勞階級と認められる。今年からは農家の人もこの仲間に加えられたそうであるから、ほとんど全國民に社會保障がなされているといっていいであろう。
 ところでアメリカ政府にとっての一つの惱みは、外國からの移民が、六十五歳になると、この年金を貰って、本國へ歸ることである。それから本人が死ぬまで、またその後も細君にたしか四分の三だったかの年金を、毎年ずっと拂わなければならない。そのために流出するドルが非常に多額に上るので、大分閉口しているようである。
 一番多いのは伊太利人であって、日本人にも少しはあるらしいが、外の諸國に較べたら、まだ問題にならない。もっとも日本へ歸って、毎月三萬圓くらいずつ死ぬまで只で貰って、遊んでおられるのであるから、希望者がどんどん出て來ているそうである。
 その希望者の一人、七十歳近い一世の老人に會ったが、唯一つ心配なことがあると言っていた。もう直ぐ日本へ歸って、ゆっくり餘生を樂しんで、日本の土になるのは、非常に嬉しい。しかし自分が死んだ後、親類の者たちが「どうせアメリカ政府に知れるわけはないから」と言って、何時までも生きていることにして、年金を貰いつづけるようなことがあると、日本の恥になるというのである。
 事實そういうことも有り得る。年金は領事館を通じて渡されるのであるが、必ずしも出頭しなくてもよいからである。一世の人たちが第一に考えるのは、日本のことであるが、こういう氣持の人が、四十年ぶりに日本へ歸って、失望しなければよいがと思う。
 今度の戰爭以來、日本人の待遇がよくなって、昔の排日時代から見たら、別世界の觀がある。普通に働いていれば、何も生活に困ることはないが、皆一生の望みは、日本へ歸ることである。しかし歸って見ると、又アメリカへ戻りたくなる人も、相當あるという話である。



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