えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

小切手
こぎって
作品ID61451
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2024-11-07 / 2024-11-06
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より

 かねというと、何だか資本主義の道具の一つのように響く。しかし、錢には、全くそういう匂いがない。
 錢ときくと、すぐ聯想されるのは、五錢の白銅貨である。子供の頃、年に一度の村の祭の日に、この白銅貨を貰うしきたりになっていた。その白い冷たい白銅貨を、しっかり掌の中に握りしめて、盛り場まで行く。着く頃には、掌の中はすっかり汗ばんで、白銅貨は、生温かくなっている。五十年後の今日まで、こういうことを憶えているところを見ると、幼な心に、よほど嬉しかったにちがいない。
 錢の定義は、こういう風に考えると、手の中に握れるもの、ということになる。そうすると、かねの方は、錢とは別のものという意味で、握れないもの、即ち空なものということになりそうである。
 まことに妙な定義のようであるが、又それでいいのかもしれないという氣もする。もっとも、かねは資本主義の道具の一つという假定の下での話である。資本主義と限らず、何でも主義と名がつく以上、それは空なものであってちっとも差支えがなく、むしろその方が本當であろう。
 それだったら、資本主義の本家アメリカには、錢というものが無いはずだということになる。事實そのとおりであって、アメリカ人には、恐らく、われわれがもっている錢という觀念は無さそうである。もちろん、この話は、米國資本組織の齒車の中にはいっているアメリカ人のことである。その齒車からはずれている連中、即ち、黒人の大多數、外國移民などはその限りではない。
 私達が今住んでいるところは、かなり高級な住宅地で、住民は、たいてい金持である。貧乏人といえば、私たちのような外國人か、その近所隣りの少數の仲間くらいである。
 ところで、この頃、同じ町に住んでいるという意味で、そういう金持の連中にも、少し近附きが出來た。主として、末の娘の同級生の家庭である。この末っ子の餘惠で、女房は、大分金持連中の生活樣式を見たわけであるが、驚くべきことには、そういう金持の夫人達が、普段はほとんど金を持っていないというのである。普通、五弗くらいしか金としては持っていないらしい。
 高級自動車を二臺持ち、浴室が五つ六つある家に住むというのが、この程度の金持の平均である。そういう家の夫人達が、普段は五弗くらいしか現金を持っていないというのは、一寸面白い話である。食糧品店でも、洋服屋でも、電氣瓦斯その他の支拂でも、全部小切手で濟ますので、金はいらないのである。小切手に關する觀念が、日本とはまるでちがうので、あれは日常生活用のものになっている。從って亭主とは別に、女房が自分の小切手帳をもっているのが普通である。
 亭主が儲ける金は、もちろん銀行にそのままはいるようになっているのであろう。女房が使う金も、小切手であって、銀行の帳尻の上で全部片が附いて行く。一家何人の家族かは知らないが、そういう連中の全部が消費する金額と、主…

えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko