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惜櫟荘
せきれきそう
作品ID61459
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2026-04-25 / 2026-04-24
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 亡くなった岩波(茂雄)さんが、熱海に別莊をつくる時に、庭にあった櫟の老木を助けたという話がある。海岸に近い斷崖の上に、百坪あまりの土地が得られて、そこに三十坪の別莊をつくることにしたのである。その眞ん中に、櫟の木が一本あった。請負の人が、どうもこの木が邪魔になるので、伐ってしまおうとした。
 それを聞いた岩波さんは、絶對に伐ってはいけないという嚴命を下した。櫟は雜木であって、庭木にはならない下等な木であるが、それだからなおのこと、この木は伐ってはいけない、というのである。今の若い人たちに聞かしたら、隨分非論理的だというであろうが、明治の日本人には、こういう人がたくさんあったのである。
 それでも心配だったと見えて、今度は、庭師や土工の連中に「この木をどうしても伐ると言うのなら、その前に我輩の腕を切れ」と言い渡したそうである。岩波さんは、この自分の科白にすっかり惚れ込んでしまって、完成後、お客を招待する毎に、この科白を聞かせたものであった。中には、二三度も聞かされた人もあったことであろう。
 もっとも庭ができ上って見ると、この櫟はなかなかいい。庭全體を芝生にして、木は一本も植えてない。芝生の向う側は崖になっていて、小松の植込みが、頭だけを出し、その上は海である。櫟の老木は、唯一本この芝生の中に立っているが、その位置は軒先に近く、少し壺がはずれているところが、櫟らしい。
 この美談は、露伴先生のお耳に達し、けっきょくこの別莊には、惜櫟莊という名前がついた。これもなかなかいい名前である。
 ところで話はアメリカになるが、私たちの住んでいたシカゴ郊外の住宅地ウィネツカに、この惜櫟莊と全く同じ別莊があって、ちょっと驚いた。シカゴはミシガン湖畔にあり、湖岸に沿って北方に、ずっと住宅地がつづいている。そのうち湖にすぐ面した土地は非常に高價で、大金持の別莊地になっている。ミシガン湖は、湖といっても、日本本州の半分以上もあり、見たところは全くの海である。湖岸も斷崖になっていて、熱海とそっくりの地形である。
 その斷崖の上に、ウィボルトという百貨店の先代の未亡人が、別莊をつくって住んでいる。その孫娘が、うちの末娘と同級生だったので、一度遊びに行ったことがある。
 行って見て驚いたことには、家の大體の配置も、庭の芝生も、海の景色も、惜櫟莊そっくりなのである。ただ櫟の代りに、大きい松が一本、丁度惜櫟莊の櫟と同じような位置に植わっている。なかなか趣味が高尚である。岩波さんは非常に凝り屋で、こういうことにやかましい人であるが、アメリカにも全く同じ趣味の人がいることを知って、大いに驚いた。



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