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颱風の予報
たいふうのよほう
作品ID61461
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2025-09-26 / 2025-09-26
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 この半月くらいの間に、二十二號颱風から始まって、二十五號まで、四つもの颱風が續けざまにやって來た。そのうち二つばかりは、九州を襲って、大損害を與えたが、あとの二つは、幸いにして本土をそれたので、大したことはなかった。
 この頃は、氣象觀測網も大分充實し、觀測技術も進歩したので、颱風は洋上かなりはなれたところにある頃からもう發見される。それで日本に近づいて來る進路も、二三日前にははっきりする。
 その進路は、天氣圖の上に、矢印をつけた線で示され、新聞にも出る。ところが日本列島へ近づいた現在位置から先のところ、即ち今後の豫想進路は、たいていはっきりしないので、Y字型に二本の進路を示し、その間に斜線を入れて、新聞などに發表する。その斜線の入った地域が、颱風に襲われる蓋然性の強いところである。
 こういう天氣圖には、皆がもう馴れてしまったので、颱風の豫報というものは、こういうものと思っている人も、かなりあるようである。しかしこれは豫報の一歩手前であって、豫報ではない。
 もっともそれは豫報という言葉の定義の問題であって、蓋然性を述べればよいということにすれば、立派に豫報である。科學は、すべての現象について、蓋然性しか言うことは出來ない、というやや哲學的な見方からすれば、天氣豫報などは、もちろん蓋然性を言えば十分である。
 しかし人間の生活に結びつけての豫報ということにすれば、蓋然性では、一寸困ることがある。明日の天氣が、晴れそうでもあり、降りそうにも考えられる氣象状態の時に、「晴れるかも知れないし、降るかも知れない」という豫報では、一寸妙なものである。
 日本の氣象學の父といわれる岡田武松先生は、長らく中央氣象臺長をつとめられ、今日の氣象臺を作り上げられた方である。先生の流儀は少々極端であって、世の中の人は、晴れるか降るかを知りたいのであるから、どっちかはっきり言うことが豫報である。理由も説明も要らない、という考え方であった。
 颱風が現在何處まで來て、中心示度がいくら、風速いくらというのは、實況を述べているので、豫報ではない。もちろん氣象臺の方では、實況として報告されているのであるが、何か豫報みたように誤解している人もあるようである。
 Y字型の斜線を引いた地域の中で、何處に颱風が來るかが、豫報である。もちろん現在の氣象學では、その豫報は困難である。それで幅をもたせて、蓋然性を豫報しているわけで、それでも無いよりは遙かによい。しかし本當の豫報は、それから先のことである。



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