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つり
作品ID61468
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2025-10-10 / 2025-10-09
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 この近年、日本中到るところで、釣が大流行のようである、實際のところ、釣くらい面白いものは、外に一寸あるまい。
 この頃、無暗と忙しくて、ゆるゆると魚釣りに時を忘れるというような機會には、滅多に惠まれない。それだけに、子供の頃、北陸の湖の畔に育った私などには、昔の思い出がなつかしまれる。五寸もある鮒を釣り上げて、それが藻にからんだ時の、あの緊張感のようなものは、大人になってからは、もう味わえない。
 アメリカにいた頃、住んでいた町のすぐ近くに川があった。其處に簡單なダムが建設され、その上流側に、細長い貯水池が出來ていた。この貯水池は、川なりにゆるやかに曲っていて、兩岸には、森林が水面におおいかぶさるように繁っていた。こういうところには、たいてい保存林があって、野生の林をそのままに保存するようになっている。
 夏の間、よくこの貯水池へ鯉釣りに出かけた。研究所の方は、夏時間の四時半、すなわち三時半にはもう引けるので、それから暗くなるまでには、少くも五時間はある。自動車なら十分とかからないところなので、よく夕食をもってピクニックがてらに、この貯水池へ出かけた。
 緯度が高いので、たそがれは、何時までもつづく。風は滅多にないので、この人造湖の水面は、鏡のように凪いでいる。保存林の中、川べりに沿って、ところどころ小さい開けた土地があって、其處が釣場である。
 川の向う側は、鬱蒼とした森で、その影が黒く水面にうつっている。陽が落ちて、地平線の近くが橙色に染まり、それが雲一つない青磁色の空に溶け込む頃になると、急に魚が釣れ出して來る。釣れるのは、主として鯉であって、普通は七八寸くらい、まれに尺を越すのがかかる。それと、あとよく釣れるものは鯰である。アメリカの鯉や鯰は、大分のんきに出來ているらしく、われわれのようなずぶの素人にも、一夕に五六尾は釣れる。
 もっとも釣る人が、日本などと較べたら、非常に數が少いので、魚の方も、あまりすれていないのであろう。それに普通のアメリカ人は、たいていこういう魚は食べない。釣るだけが目的で、歸りには、魚を全部魚籠から出して、又川へ放して歸る。それで魚が豐富なのである。持って歸るのは、黒人か、日本人くらいのものである。
 人造湖の溜り水であるから、鯉といっても、臭味が強く、味もきわめてまずい。浴槽の一つを犧牲にして、水をはって、四五日泥をはかせてから、鯉こくを作ってみたが、それでも駄目である。釣った魚を食べることを考えるのは、釣の外道であるが、鯉こくの作れない鯉も困りものである。



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