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二億円の犬
におくえんのいぬ
作品ID61476
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2025-11-11 / 2025-11-10
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 何時かのシカゴの新聞に、珍しい損害賠償の訴訟事件が載っていた。犬が死んだのに對する賠償金の要求で、それだけならば、何も變った話ではないが、その金額が六十萬弗(二億二千萬圓)というところが珍しいのである。
 これは冗談の話ではない。アイルランド系のミッチェルという男が、ユニオン・パシフィック会社とシカゴ鐵道會社とを相手にして、正式に法廷へ持ち出した事件なのである。
 犬はよく訓練されたフォックス・テリアで「歐洲の驚異の犬」といわれたものだそうである。それを加州へ送る途中、兩會社の不注意で、途中で死んでしまったので、それに對して、二億二千萬圓の損害賠償をしろというのが、この訴えである。
 いくらアメリカでも、こういう話は珍しいらしく、加州の話が、シカゴの新聞にまで載ったわけである。どんな犬かは知らないが、いくら名犬でも、二億圓の犬というのは、われわれには一寸考えが及ばない。とにかく、とんでもない話が時々起る國である。
 もちろん裁判所でも、まさか六十萬弗拂えとはいわないであろうが、とにかく正式の訴訟にまで持ち出す以上、何か計算の根據があるにちがいない。見世物にした時には、どれだけの收益があるはずだとか、今までの訓練に要した時間と努力とを金に換算するとか、精神的打撃が莫大であるとか、いろいろ加算して、六十萬弗という數字を出したのであろう。
 ところで、この話の面白い點は、そういう内容よりも、とにかく一匹の犬に對して、二億圓という數字を出し、眞面目な顏をして、それを法廷へ持ち出したという點にある。日本人だったら、いくら度胸のある人でも、二億圓という考えが、第一浮ばない。もしわるが、いやがらせをするにしても、五百萬圓も吹っかけたら、せいぜいのところであろう。いがみの權太などという男は、考えてみれば、可愛らしい男である。
 アメリカでは、人間が自動車に轢かれて死んだ場合、保險會社が支拂う金は、普通には、二萬弗から三萬弗程度、即ちせいぜい一千萬圓止りである。それでこの犬には、人間二十人分の値段がつけられたわけである。
 そういう評價を平氣でやらせるところに、この話の要點がある。考え方が、日本人などとは根本的にちがうのであって、權利は權利として主張するという考えが、道徳感の底に流れていると解釋するのが、一番分り易いであろう。もちろん義務はその裏返しである。
 一本の棒を兩方から押しても、又兩方から引っ張っても、棒は平衡を保っている。この場合の話ではないが、互に正當な權利を主張する場合にも、互に相手のことを考えて、控え目にする場合にも、ともに社會の秩序は保たれる。われわれから考えると、互に權利を主張するという、いわばつっ張り合いの釣合は、どうも不安な氣がする。しかし正當な權利を主張して、同時に義務もちゃんと果すのなら、それでも結構なのである。唯肌合が少し違うというだけのこと…

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