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双手を挙げる
もろてをあげる
作品ID61489
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2026-05-12 / 2026-05-11
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 うちの娘たちも、上の二人は、もう大學へ行っているが、この連中も、御多分に洩れず、このごろ、親爺を馬鹿にすることを覺えて、まことに閉口である。
 爲すことが、どうも生意氣で、仕樣のない奴等である。例えば、何か爲になる話をしてやると、初めは神妙な顏付をして聞いている。そしてすっかり最後までしゃべらせておいて「どうだい」ときくと、默って指を二本立てて見せる。その話は二度目だという意味である。
 一番氣に食わないのは、食い物にたいして贅澤になったことである。いつか夕食に、女房がライスカレーを作ったときに「何だライスカレーか」と言ったことがある。ライスカレーなどというものは、日清、日露の戰いに日本が勝ち、日本の國力が大いに揚っていた時代でも、たいへんな御馳走だったものである。それを敗戰後の今日「何だライスカレーか」などと言うのは、とんでもない話である。
 親爺の中學時代などは、寄宿舍にはいっていたが、食費は一日二十錢であった。第一次大戰中及び戰後にかけての好況時代で、米騷動が起ったくらい米價は高騰していた。そのころに一日二十錢の食費であるから、めしはもちろん四分六の麥飯で、お菜も一汁一菜なんていう贅澤は許されず、一汁または一菜である。一汁の方も味噌はちょっぴり入れるだけで、あとは鹽と水とで量を殖やしてある。その汁を六杯くらいお代りする豪傑もいた。
 寄宿生と限らず、通學生も、一さい町の飮食店にはいることは許されない。二錢のうどん一杯食べたことが見つかっても、停學一週間。二度目は退學。運が惡ければ、四錢で退學になるわけである。それで寄宿生の一番の樂しみは、月に一度の「洋食」であった。
「來週水曜日晝洋食」というビラが、食堂の入口に貼り出されると、さあたいへんである。その週は、どうも日月の運行が遲いような氣がする。いよいよ當日になると、朝から少し食を節して、待っている。洋食の時ばかりは麥がはいらず、白米である。
 ところでその洋食なるものは、二種類に決っている。ライスカレーとオムレツとが、隔月に出ることになっていた。親爺などは、月に一度のライスカレーを、どんなに待ったものか、お前たちには、想像もできないだろう。それだのに……と言いかけて、ちょっと氣がついたことは、どうもこの話は、前に一度、ひょっとすると二度くらいもしたかもしれない、という點である。
 それで御説教は、それくらいで止めて「もっとも、お前たちには、前にもこの話をしたかも知れないが」と斷り書を言ったら、途端に二人の娘が、さっと双手を擧げて、十本の指を開いて見せた。十度目だという意味である。どうも呆れた連中である。



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