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珈琲の値上り
コーヒーのねあがり
作品ID61508
著者中谷 宇吉郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「百日物語」 文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2025-10-01 / 2025-09-30
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 一年ぶりに研究所へ顏を出してみたら、大分人數が殖えて、賑やかになっていた。しかし、雰圍氣は昔どおりで、まず芽出たいことであった。唯一つちがったことは、珈琲が値上りになっていたことである。
 もちろんアメリカ國内の珈琲が高くなったわけではなく、研究所内で飮む珈琲が値上りしたのである。といっても、何のことか分からないかもしれないが、それにはまずこの研究所の珈琲制度の説明が必要である。
 アメリカ人の一番感心な點は、よく働くことで、工場はもちろんのこと、官廳などでも、全員朝の八時には皆揃っている。そして夕方の五時まできちんと働く。休みは晝の一時間と、午前十時および午後三時の各十分宛のコーヒー・タイムだけである。即ち拘束九時間、實働八時間である。
 ところでこのコーヒー・タイムにおける珈琲であるが、この研究所では以前から「自由販賣」制度にしていた。外へ頼んで、朝大きい珈琲沸しに、一杯珈琲を入れたものを、毎日配達して貰う。これは電熱式になっているので、いつでも熱い珈琲が出る。
 この珈琲沸しは廊下の片隅にあって、その横にドーナツと砂糖とクリームと、それに明けっ放しの紙函とが置いてある。研究所だから時間は決めてないので、各自勝手な時に行って、珈琲なり、ドーナツなり、或いは兩方なりをとって、決められた代金を紙函の中に入れて來る。釣錢が必要な場合もあるので、この紙函は明けっ放しにしてある。
 ところがやはり狡い男もいると見えて、珈琲だけ飮んで金を入れて來ない男もあるらしい。時々減った珈琲の量と代金とが合わないことがあって、持ち込んで來る商人の方から苦情が來る。そういう時には、次の週には、珈琲代の値上げをして埋め合せをする。
 今度はそれが大分續いて、大幅の値上げをしないと埋め合せがつかなくなったのだそうである。それで昨日の月曜日、即ち私が顏を出した日から、向う二週間、珈琲一杯十二仙ということになった。平常値段は七仙だから、たいへんな値上げである。昨日この珈琲場で仲間に會ったら、「ドクターは惡い時に來たものだね」とお悔みをいわれた。
 この話は、アメリカにも狡い男がいるという例にもなる。又そういうことがあっても、それは事故として、値上げで埋め合せるというひどくお人よしの例とも見られる。
 アメリカのような異人種の集りの國で、しかも組織がああ大きくなると、イエスとノーで割り切って、ことを運ぶ必要がある。即ち正直が唯一の基盤になる。從って不正直は事故と見なすという考え方が、生れて來るのであろう。



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