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![]() ゆうめい |
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作品ID | 61586 |
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副題 | ――この小篇を島田謹二氏にささぐ―― ――このしょうへんをしまだきんじしにささぐ―― |
著者 | 佐藤 春夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」 平凡社ライブラリー、平凡社 2015(平成27)年7月10日 |
初出 | 「別冊文藝春秋 第四四号」1955(昭和30)年2月28日 |
入力者 | 持田和踏 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2025-03-20 / 2025-04-10 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
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(1)
先年、幼児がどこかでうつされて来た急性トラコーマが一家中にひろまって、それは当時、友人F博士の治療ですっかり治っているはずなのに、時折は何かの拍子で眼が渋いような感じがしたり、へんに涙っぽいような場合があって、再発ではないかと神経を病ませる。この間もちょっと、そんな事があったから先年もっともひどい目にあった八歳になる初雄も同じようなことを云い出したので、自分のは、さしたることも無いと思ったが、初雄のが案じられた。折から子供の学校は紀念日で休みになったうえ、春寒もややゆるんだのを幸と、散歩かたがた初雄をいっしょに誘い出して、念のため見て置いてもらおうと出かけたのは、亡弟の学友で、その学校時代から自分も親しくしていた眼科専門のF博士の医院である。
なるべく午前中の診察時間に間に合うようと車をいそがせたが、やっとぎりぎりで、いつも繁盛しているこの医院も、もう盛り時は過ぎていたから、玄関の突き当りの待合室に、年輩の婦人が、ひとりぽつねんとガーゼのようなハンケチを眼に押しあてているのが見えるだけであった。
自分の声を聞きつけて、診察室から飛び出して出迎えてくれたF君は、
「おや、初雄君も一しょで、またどうかなさいましたか」
「いや少しへんなので、念のため一度ご覧になって置いていただこうと思いましてね」
「時々お目にかかれるのはいいが、また痛い思いをおさせするのはいやですからな」
と云いながら旧友は、我々を待合室の方へ請じ入れると、先客の老夫人は自分を先生の知友と看て取ったせいか、眼にあてていた布をちょっとはずして一目我々の方を見やってから、しずかに立ち、軽い一礼で我々に会釈して、先ず長椅子の片脇ににじり寄り、それから脱ぎすてたのをたたんで小脇に置いてあったカーキ色の軍服地みたいな厚いコートを取り上げて膝の上に置きなおして、我々のための座席を設けて、
「お坊ちゃま、さあどうぞ」
と云ったきり、我々がそのとなりに腰をおろした時には、ふたたび布を眼に押しあてて、すすり泣きしているかのように思えた。目もとは布につつまれてよくは判らないが、色白で鼻すじのとおった美しい輪郭の横顔で、やや派手すぎるかと見える亀甲の少しくたびれた大島紬の対を着ている肩は、まだ年のせいというほどでもあるまいに、すっかり肉が落ちて見る目にも気の毒にさびしい。と見ていると、やおら立って、一礼するや、
「失礼いたしました、ご免あそばせ」
と云い残して出て行った。老夫人が玄関の扉をあけるのを、F君はあとから、
「では、おだいじに」
と見送っている。
ただの患者ではなくF君の知人ででもあろうか。すべてのもの腰がこの場末の医院の待合室で見慣れている人々とはおのずからちがった人品に見えるうしろ姿の残象を見送っているところを、F君は、
「では拝見いたしましょうか」
と診察の座へ自分たちを促…