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狐憑
きつねつき
作品ID618
著者中島 敦
文字遣い旧字旧仮名
底本 「中島敦全集 第一巻」 筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
入力者
校正者木本敦子
公開 / 更新1999-09-03 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。色々なものが此の男にのり移るのださうだ。鷹だの狼だの獺だのの靈が哀れなシャクにのり移つて、不思議な言葉を吐かせるといふことである。
 後に希臘人がスキュティア人と呼んだ未開の人種の中でも、この種族は特に一風變つてゐる。彼等は湖上に家を建てて住む。野獸の襲撃を避ける爲である。數千本の丸太を湖の淺い部分に打込んで、其の上に板を渡し、其處に彼等の家々は立つてゐる。床の所々に作られた落し戸を開け、籠を吊して彼等は湖の魚を捕る。獨木舟を操り、水狸や獺を捕へる。麻布の製法を知つてゐて、獸皮と共に之を身にまとふ。馬肉、羊肉、木苺、菱の實等を喰ひ、馬乳や馬乳酒を嗜む。牝馬の腹に獸骨の管を插入れ、奴隸に之を吹かせて乳を垂下らせる古來の奇法が傳へられてゐる。
 ネウリ部落のシャクは、斯うした湖上民の最も平凡な一人であつた。
 シャクが變になり始めたのは、去年の春、弟のデックが死んで以來のことである。その時は、北方から剽悍な遊牧民ウグリ族の一隊が、馬上に偃月刀を振りかざして疾風の如くに此の部落を襲うて來た。湖上の民は必死になつて禦いだ。初めは湖畔に出て侵略者を迎へ撃つた彼等も名だたる北方草原の騎馬兵に當りかねて、湖上の栖處に退いた。湖岸との間の橋桁を撤して、家々の窓を銃眼に、投石器や弓矢で應戰した。獨木舟を操るに巧みでない遊牧民は、湖上の村の殲滅を斷念し、湖畔に殘された家畜を奪つただけで、又、疾風の樣に北方に歸つて行つた。後には、血に染んだ湖畔の土の上に、頭と右手との無い屍體ばかりが幾つか殘されてゐた。頭と右手だけは、侵略者が斬取つて持つて歸つて了つた。頭蓋骨は、その外側を鍍金して髑髏杯を作るため、右手は、爪をつけたまま皮を剥いで手袋とするためである。シャクの弟のデックの屍體もさうした辱しめを受けて打捨てられてゐた。顏が無いので、服装と持物とによつて見分ける外はないのだが、革帶の目印と鉞の飾とによつて紛れもない弟の屍體をたづね出した時、シャクは暫く茫つとしたまま其の慘めな姿を眺めてゐた。其の樣子が、どうも、弟の死を悼んでゐるのとは何處か違ふやうに見えた、と、後でさう言つてゐた者がある。
 その後間もなくシャクは妙な譫言をいふやうになつた。何が此の男にのり移つて奇怪な言葉を吐かせるのか、初め近處の人々には判らなかつた。言葉つきから判斷すれば、それは生きながら皮を剥がれた野獸の靈ででもあるやうに思はれる。一同が考へた末、それは、蠻人に斬取られた彼の弟デックの右手がしやべつてゐるのに違ひないといふ結論に達した。四五日すると、シャクは又別の靈の言葉を語り出した。今度は、それが何の靈であるか、直ぐに判つた。武運拙く戰場に斃れた顛末から、死後、虚空の大靈に頸筋を掴まれ無限の闇黒の彼方へ投げやられる次第を哀しげに語るのは、明らかに弟デック其…

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