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作品ID | 62688 |
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副題 | 怪奇シリーズその10 かいきシリーズそのじゅう |
原題 | The Dark Other |
著者 | ワインバウム スタンリー・G Ⓦ |
翻訳者 | 奥 増夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
初出 | 1950年 |
入力者 | 奥増夫 |
校正者 | |
公開 / 更新 | 2024-12-28 / 2024-12-26 |
長さの目安 | 約 232 ページ(500字/頁で計算) |
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第1章 真の恐怖
ニコラス・ディバインが連れの女性に眼を向けながら言った。
「そういうことじゃない。経験や現実と、かけ離れた真の恐怖という意味だ。ただ漠然と怖いのじゃない、つまり何か起こるかも、未知の危険があるかも、という恐怖じゃない。意味が分るか」
黒々と広がる闇夜のミシガン湖に眼を泳がせながら、連れのパットが言った。
「もちろん。確かに言うことは分るけど、いきさつは全く知りません。だいぶお困りのようで」
見れば、ニコラスの細顔が遠くの明りでくっきり浮かび上がっている。ニコラスは視線を転じ、湖をじっと見つめ、ハンドルのレバーをぼんやりいじった。パットは少し胸騒ぎを覚えた。
パトリシア・レーンの夜の楽しみといえば、おしゃべり以上にわくわくするものはない。二人はここに丸々2時間も駐車している。
ニックには何かある、しかし実体はよく知らなかった。感性とか、魅力とか、個性とか……。これらは、つまらない常套語句であり、説明できない微妙な性格を掴む手段でもある。
ニックが再開した。
「むずかしいけど、ボードレールや、ポーが試みた。絵画ではホガース、ゴヤ、ドレがやった。ポーが一番近づいたと思う。特定の詩や小説で恐怖の本質を捉えた。そう思わないか」
「さあね。ポーはほとんど忘れました」
「黒猫という小説を覚えているか」
「すこし。妻殺しの男でしょう」
「そうだけど、その役じゃない。猫のほう、脇役の猫の方だ。使いようによって、猫は恐怖の象徴になり得るって知っているだろう」
「ええ。裏切り猫は嫌いです」
「ポーの猫だがね。ちょっと考えてみれば、まず黒猫、恐怖の要素だ。それから不自然に巨大で、異常に大きい。そして全身真っ黒じゃなく、つまり完璧に美しくなく、胸の所に白いまだらがあり、徐々に途方もない形になっていく。覚えているか」
「いいえ」
「絞首台の形だよ」
「うわあ」
「それから、ここが鬼才のきわみ、眼だ。片側はつぶれ、もう片方は不吉な黄色い眼球だ。想像できるか。黒猫、絞首台の斑点がある異常に大きい黒猫、片目がなく、もう片目はもっとおそろしい。もちろん創作上の仕掛けだが、うまいし、天才的だ。そうじゃないか」
「ええ、あなたがそういうなら、天才です。ひねくれた悪魔の天才ですね」
ニックがさざ波の湖面に映る光点を見て、
「それを書きたいし、いつか書いてやる。真の恐怖、恐れの権化だ。もう書かれたかもしれないが、まだポーですら書き切っていない」
「あなたの分析は趣味がよくない、ニック。なぜ、ポーの小説を改善したいの?」
「書きたいからだし、恐怖に興味があるからだ。この二つが理由だ」
「どっちも言い訳でしょう。もちろん書きあげても、みんなに読みなさいと無理強いできません」
「書き上げたら読者に押しつける必要はない。成功すれば偉大な文学となり、今もなお、こんな時代だから読む…