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猫又先生
ねこまたせんせい
作品ID642
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本文學全集 85 大正小説集」 筑摩書房
1957(昭和32)年12月20日
入力者小林徹
校正者丹羽倫子
公開 / 更新1999-06-24 / 2014-09-17
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 高橋順介、それが猫又先生の本名である。
 先生はT中學校の國語並に國文法の先生で、私達が四年級に進んだ年の四月に新任されたのである。而も、當然私達の擔任たるべく期待されてゐた歴史の杉山先生が、肺患が重つた爲めに辭任されたので、代つて私達のクラスを擔任されることになつた。杉山先生は若かつたが、中學校の先生には稀に見る程の温かな人格者で、而も深い學識を持ちながら淡々たる擧措が一同の敬愛の的となつてゐた。故にその辭任の原因が肺患と知つた時にも、私達は先生と離れるのを幸福と思はなかつた。そして一同涙ぐましい程失望した。猫又先生はこの失望の前に迎へられたのである。
 講堂で催された新學期始業式の席上で、教頭が新任先生三人の紹介をした後、猫又先生は三人の最後に壇上に現れて、赤面しながら挨拶された。先生の丈は日本人並であつたが、髮の毛が赤く縮れた上に、眼が深く凹んでゐて、如何にも神經質らしい人に見えた。私達は擔任の先生であると聞いたので、特別の期待と好奇心を以て、先生の詞に耳を傾けてゐた。が、遠くに離れてゐた私達の眼に、先生の紫ずんだ唇が磯巾着のやうに開閉し、それにつれて左右に撥ねた一文字髭が鳶の羽根のやうに上下するのが見えたかと思ふと、先生はもう降壇されてしまつた。呆氣に取られたのは私ばかりではない。みんなきよとんとした眼で互に顏を見合せて、にやりと笑つた。私達は所屬の教室に退いて、今度こそは――と思ひながら、先生の到着を待つてゐた。
「おいおい、あの先生は少し露助に似てるな。」と、剽輕者の高木が眞先に口を切つた。
「露助……それよりも僕は猫みたいな氣がしたぜ、眼が變に光つて、髭がぴんと横つちよに撥ねてて……」と、一人が笑ひながら云つた。
「とに角、貧相な先生だ。」とまた一人が叫んだ。
「然し、あの挨拶つ振りなんか見てると、人は好ささうだね。」と、得能が振り返つた。
「人が好ささうだつて、そいつはどうだかな。」副級長の松川が、それに答へた。
「だつて顏を赧くしたり、もぢもぢしたりして、何だか落ち着かなかつたぜ。」
「そりや違ふ、それで人が好いとは云へない。人間、誰だつて初めん時はちよいとてれるからね。」松川がまた反對した。
「てれる……」と、得能が呟いた。
「まあどつちみち、杉山先生とは比べ物にならないさ。」と、首藤が二人の間に口を[#挿絵]んだ。
 姿から來た先生の印象は、とに角みんなの心持に輕い失望を與へたらしい。が、何れにしてもみんなの口は、新任先生の下馬評に賑つて、囁きとなり呟きとなり笑ひとなつて、部屋の空氣がざわめき立つてゐた。
「來たよ、來たよ。」と、一人が聞き耳を立てて叫んだ。
 途端に、廊下から先生の靴音が明かに聞えて來た。みんなは一齊に默り込んで、顏を見合せた。教室は急に谷底にでも沈んだやうにひつそりして、ずんと抑へかかるやうな沈默が其處に擴がつた。…

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