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さかずき
作品ID688
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「山椒大夫・高瀬舟」 新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年5月30日、1985(昭和60)年6月10日41刷改版
初出「中央公論」1910(明治43)年1月
入力者砂場清隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2000-08-09 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。
 水は井桁の上に凸面をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。
 青い美しい苔が井桁の外を掩うている。
 夏の朝である。
 泉を繞る木々の梢には、今まで立ち籠めていた靄が、まだちぎれちぎれになって残っている。
 万斛の玉を転ばすような音をさせて流れている谷川に沿うて登る小道を、温泉宿の方から数人の人が登って来るらしい。
 賑やかに話しながら近づいて来る。
 小鳥が群がって囀るような声である。
 皆子供に違ない。女の子に違ない。
「早くいらっしゃいよ。いつでもあなたは遅れるのね。早くよ」
「待っていらっしゃいよ。石がごろごろしていて歩きにくいのですもの」
 後れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。
 これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。
「わたし一番よ」
「あら。ずるいわ」
 先を争うて泉の傍に寄る。七人である。
 年は皆十一二位に見える。きょうだいにしては、余り粒が揃っている。皆美しく、稍々なまめかしい。お友達であろう。
 この七顆の珊瑚の珠を貫くのは何の緒か。誰が連れて温泉宿には来ているのだろう。
 漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞のように泉の畔に差す。
 真赤なリボンの幾つかが燃える。
 娘の一人が口に銜んでいる丹波酸漿を膨らませて出して、泉の真中に投げた。
 凸面をなして、盛り上げたようになっている水の上に投げた。
 酸漿は二三度くるくると廻って、井桁の外へ流れ落ちた。
「あら。直ぐにおっこってしまうのね。わたしどうなるかと思って、楽みにして遣って見たのだわ」
「そりゃあおっこちるわ」
「おっこちるということが前から分っていて」
「分っていてよ」
「嘘ばっかし」
 打つ真似をする。藍染の湯帷子の袖が翻る。
「早く飲みましょう」
「そうそう。飲みに来たのだったわ」
「忘れていたの」
「ええ」
「まあ、いやだ」
 手ん手に懐を捜って杯を取り出した。
 青白い光が七本の手から流れる。
 皆銀の杯である。大きな銀の杯である。
 日が丁度一ぱいに差して来て、七つの杯はいよいよ耀く。七条の銀の蛇が泉を繞って奔る。
 銀の杯はお揃で、どれにも二字の銘がある。
 それは自然の二字である。
 妙な字体で書いてある。何か拠があって書いたものか。それとも独創の文字か。
 かわるがわる泉を汲んで飲む。
 濃い紅の唇を尖らせ、桃色の頬を膨らませて飲むのである。
 木立のところどころで、じいじいという声がする。蝉が声を試みるのである。
 白い雲が散ってしまって、日盛りになったら、山をゆする声になるのであろう。
 この時只一人坂道を登…

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