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作品ID | 697 |
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著者 | 島木 健作 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本の文学 40 林房雄・武田麟太郎・島木健作」 中央公論社 |
入力者 | 山形幸彦 |
校正者 | 野口英司 |
公開 / 更新 | 1998-08-20 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 76 ページ(500字/頁で計算) |
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1
新しく連れて来られたこの町の丘の上の刑務所に、太田は服役後はじめての真夏を迎えたのであった。暑さ寒さも肌に穏やかで町全体がどこか眠ってでもいるかのような、瀬戸内海に面したある小都市の刑務所から、何か役所の都合ででもあったのであろう、慌ただしくただひとりこちらへ送られて来たのは七月にはいると間もなくのことであった。太田は柿色の囚衣を青い囚衣に着替えると、小さな連絡船に乗って、翠巒のおのずから溶けて流れ出たかと思われるような夏の朝の瀬戸内海を渡り、それから汽車で半日も揺られて東海道を走った。そうして、大都市に近いこの町の、高い丘の上にある、新築後間もない刑務所に着いたのはもうその日の夕方近くであった。広大な建物の中をぐるぐると引きまわされ、やがて与えられた独房のなかに落ち着いた時には、しばらくはぐったりとして身動きもできないほどであった。久しぶりに接した外界の激しい刺戟と、慣れない汽車の旅に心身ともに疲れはてていたのである。それから三日間ばかりというもの続けて彼は不眠のために苦しんだ。一つは居所の変ったせいもあったであろう。しかし、昼も夜も自分の坐っている監房がまだ汽車の中ででもあるかのように、ぐるぐるとまわって感ぜられ、思いがけなく見ることの出来た東海道の風物や、汽車の中で見た社会の人間のとりどりの姿態などが目先にちらついて離れがたいのであった。ほとんど何年ぶりかで食った汽車弁当の味も、今もなお舌なめずりせずにはいられない旨さで思い出された。彼はそれをS市をすぎて間もなくある小駅に汽車が着いた時に与えられ、汽車中の衆人の環視のなかでがつがつとした思いで貪り食ったのである。――しかし、一週間を過ぎたころにはこれらのすべての記憶もやがて意識の底ふかく沈んで行き、灰いろの単調な生活が再び現実のものとして帰って来、それとともに新しく連れて来られた自分の周囲をしみじみと眺めまわして見る心の落着きをも彼は取り戻したのであった。
独房の窓は西に向って展いていた。
昼飯を終えるころから、日は高い鉄格子の窓を通して流れ込み、コンクリートの壁をじりじりと灼いた。午後の二時三時ごろには、日はちょうど室内の中央に坐っている人間の身体にまともにあたり、ゆるやかな弧をえがきながら次第に静かに移って、西空が赤く焼くるころおいにようやく弱々しい光りを他の側の壁に投げかけるのであった。ここの建物は総体が赤煉瓦とコンクリートとだけで組み立てられていたから、夜は夜で、昼のうち太陽の光りに灼けきった石の熱が室内にこもり、夜じゅうその熱は発散しきることなく、暁方わずかに心持ち冷えるかと思われるだけであった。反対の側の壁には通風口がないので少しの風も鉄格子の窓からははいらないのである。太田は夜なかに何度となく眼をさました。そして起き上ると薬鑵の口から生ぬるい水をごくごくと音をさせて…