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仮装観桜会
かそうかんおうかい
作品ID713
著者佐左木 俊郎
文字遣い新字新仮名
底本 「恐怖城 他5編」 春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日
入力者大野晋
校正者鈴木伸吾
公開 / 更新1999-06-28 / 2014-09-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       1

 靄! 靄! 靄!
 靄の日が続いた。胡粉色の靄で宇宙が塗り潰された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。食い止めて吸収していた。
 靄の中で桜の蕾が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
 靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。従前どおりに続いていく雰囲気の中で彼らの要求感はしだいに膨張して、弾けようとする力を持ちだしてきていた。
 彼らの要求! それは極めて簡単なものであった。そしてまた、それは極めて至当な欲求であった。季節が気温の坂を上るにつれ、花の蕾が膨張せずにはいられないように、彼らの生活もまた転がるに従って膨張していた。ある一つの細胞がその環境の中でしぜんに膨張していくとき、人工的ないかなる力もそれを抑えることはできない。もし、一つの蕾を枯らすことなくそのままの大きさに止めておくことができたら、それは魔術である。奇術である。時代の波に浮かべてある生活の舟から完全に加速度を奪うことができたら、これもまた魔術であろう。奇術であろう。魔術師ではない彼ら職工たちが、自分たちの生活の膨張と加速度とを自分の力でどうすることもできないのは、極めて当然のことであった。春になれば暖かくなり、花が咲く。それと同じような自然の成行きであった。
 しかし、それを彼らの工場主前田弥平氏は全然認めてくれないのだった。彼のそういう態度は、花はもう散ろうとしているのに、その花を蕾として認めているようなものであった。
「そんなことを言ったって、一般に緊縮の時代じゃないか。こんな時に、そりゃあ無理というもんだ」
 前田工場主はそう言うのだった。
 しかし、彼らは決してその生活を膨張させようというのではなかった。現在の状態について要求しているのだった。それなのに、前田工場主は緊縮政策をもって、にべもなく彼らの要求を退けた。
「まあここしばらく、生活を緊縮することだ。実を言うと、工場の経費だって緊縮したいところなんだからなあ。まあまあ、できるだけ生活を緊縮して……」
「なにを? 緊縮しろ? 緊縮できるくらいならなにも言わねえや」
 職工たちには、とうとう我慢のできない日が来た。

       2

 しかし、工場主の前田弥平氏はやはりそれが不安になってきた。奥深い部屋の隅に、春にもなれば春の陽光が射す。新しい時代に対して目を覆っている前田弥平氏の目の底にも、新しい時代の世相の影が映らずにはいなかった。その影の中に、新しい時代はいかなる姿で映っているか? それを見たとき、前田弥平氏はじっと…

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