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栗の花の咲くころ
くりのはなのさくころ |
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作品ID | 718 |
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著者 | 佐左木 俊郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「佐左木俊郎選集」 英宝社 1984(昭和59)年4月14日 |
入力者 | 大野晋 |
校正者 | しず |
公開 / 更新 | 1999-11-15 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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一
暗欝な空が低く垂れていて家の中はどことなく薄暗かった。父親の嘉三郎は鏡と剃刀とをもって縁側へ出て行った。併し、縁側にも、暗い空の影が動いていて、植え込みの緑が板敷の上一面に溶けているのであった。
「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」
嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ直かに尻を据えて、すぐ頬の無精髭を剃りにかかった。
「お父さん! 序に、鼻の下の方も、剃ってしまいなせえよ。」
障子の中から母親の松代がそう声をかけた。
「余計な口出しをするな!」
嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。
「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……」
「笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」
「お父さんがその気だから、美津なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は現在なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が(お嬢さんお嬢さんて!)言われていた時の気で髭ばかり捻っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。」
「馬鹿っ! 貧乏はしても嘉三郎だぞ! そこえらの水呑百姓と縁組が出来ると思うのか! 痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ! 何百人という人間を髭を捻り稔り顎で使って来てる大請負師だぞ。何は無くっても家柄ってものだけは残っているんだ。」
「家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。俊三郎なんかも、家柄のために、なんぼ苦労しているだか。自分じゃあ気楽に百姓していたがるものを、お父さんが(俺家の伜も東京へ勉強に出ていますがな!)って言って髭を稔っていてえばかりに、銭の一文も送れねえのに無理に苦学になど出してやって……」
松代はそう涙声になりながら続けた。
「馬鹿! 俊や美津のことなど言うなっ! 黙っていろ!」
嘉三郎は又そう怒鳴った。それで二人の間の争いはぷっつりと消えた。重い沈黙がそして拡がって来た。
そこへ庭から郵便配達が這入って来て、嘉三郎の膝のところへ、一通の封書をぽんと投げて行った。嘉三郎は髭を剃るのをやめて封書を取り上げた。そして、嘉三郎は、驚異の眼を[#挿絵]りながら、大急ぎで封を切った。
二
嘉三郎は手紙を読みながら、咽喉をごくりごくりと鳴らして、何度も唾を嚥み下した。そのうちに両手がわなわなと顫え出して来た。そして彼の眼頭には、ちかちかと涙さえ光って来た。
「郵便が来たんじゃねえかね?」
松代がそう言いながらそこへ出て来た。
「美津の畜生め!」
嘉三郎は突然そう怒鳴って、手にしていた手紙を滅茶滅茶に…