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猟奇の街
りょうきのまち
作品ID721
著者佐左木 俊郎
文字遣い新字新仮名
底本 「恐怖城 他5編」 春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日
入力者大野晋
校正者吉田亜津美
公開 / 更新1999-07-17 / 2014-09-17
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 東京は靄の濃い晩秋だった。街は靄から明けて靄の中に暮れていった。――冷えびえと蠢いているこの羅の陰には何事かがある? 本当に、何事かが起こっているに相違ない?――彼は東京の靄が濃くなるごとに、この抽象的な観念に捉えられるのだった。猟奇的な気持ちでありながら、また一種の恐怖観念なのであった。
 彼はある朝早く、濃い靄に包まれている街の中を工場地帯に向けて歩いていた。どこか遠くの遠くから夜明けの足音が静かに近づいてくる。――ぎりりゅう、と骨を擦り合わせるように電車が軋る。犬が底の底から空腹を告げる。自動車の警笛が眠い頭を揺り醒ましていく。気忙しくドアの開かれる音。――靄の中に錯綜する微かな雑音が、身辺の危険区域まで近づいてきては遠ざかり、遠ざかってはまた脅かすように羅のすぐ裏まで忍び寄ってくるのだった。
 敷石道を蹴立てる靴音のその音波で、靄はうらうらと溶けていった。その裂け目からバラックの建物が浮き出してくる。道は間もなく橋にかかった。黒い木橋は夢の国への通路のように、幽かに幽かに、その尾を羅の帳の奥の奥に引いている。そして空の上には、高層建築が蜃気楼のように茫と浮かんでいた。
「あなた! まあ! あなた! わたしを迎えに戻ってきてくだすったの?」
 彼は驚きの目で振り返りながら立ち止まった。白い着物を着て橋の袂に佇んでいたその女は、叫びながら彼に跳びついてきた。
「ほんとによく戻ってきてくださったわね。それで、坊やをどうしましょうね?」
 彼女は皓い歯を見せて語りかけながら、彼の腕に掴まった。
「人違いじゃないですか?」
 彼は自分の腕を掴んだ彼女の手を、静かに引き放しながら言った。
「わたしになにもそんな、立派な言葉を使わないでもいいのよ」
「はは……どうかしてやしませんか?」
「そりゃ、するはずだわ。何もかも、因を言えばあなたが悪いからよ」
「ぼくが悪いんですって?」
「いちばん悪いのはそりゃあなたじゃないけれど、やはりあなただって悪いわ。いったい、どうしてあんなに逃げ回ったんですの?」
「はは……困ったな。ぼくはちっとも逃げ回りなんかしやしませんよ。ぼくはこれから工場へ行くところなんです」
「工場へ? 工場へだけはおよしなさいよ。あなたはまだ工場へなど行くつもりですの?」
 彼女は目を輝かせながら、また両手で彼の腕に縋りついた。
「大丈夫ですよ。逃げはしないから、大丈夫ですよ」
「ほんとに行かない? どんなことがあっても、工場へだけは行っちゃ駄目よ」
 彼女はそう言って、静かに彼の手を放した。
「行きたくなくたって、行かなければこっちが干乾しになるじゃないですか?」
「まあ! あなたはまだそんな気持ちでいるの? 困るわね。あなたが逃げ回っている間にわたしたちがどんな目に遭ったか、あなたは知らないんですか? あなたは何もかも知っているくせに、よくもそん…

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