えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

変な音
へんなおと
作品ID764
著者夏目 漱石
文字遣い旧字旧仮名
底本 「漱石全集 第十七巻」 岩波書店
1957(昭和32)年1月12日
入力者山田豊
校正者Juki
公開 / 更新1999-12-18 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より



 うと/\したと思ふうちに眼が覺めた。すると、隣の室で妙な音がする。始めは何の音とも又何處から來るとも判然した見當が付かなかつたが、聞いてゐるうちに、段々耳の中へ纒まつた觀念が出來てきた。何でも山葵卸しで大根かなにかをごそごそ擦つてゐるに違ない。自分は確に左樣だと思つた。夫にしても今頃何の必要があつて、隣りの室で大根卸を拵えてゐるのだか想像が付かない。
 いひ忘れたが此處は病院である。賄は遙か半町も離れた二階下の臺所に行かなければ一人もゐない。病室では炊事割烹は無論菓子さへ禁じられてゐる。況して時ならぬ今時分何しに大根卸を拵えやう。是は屹度別の音が大根卸の樣に自分に聞えるのに極つてゐると、すぐ心の裡で覺つたやうなものゝ、偖それなら果して何處から何うして出るのだらうと考へると矢ツ張分らない。
 自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使はうと試みた。けれども一度耳に付いた此不可思議な音は、それが續いて自分の鼓膜に訴へる限り、妙に神經に祟つて、何うしても忘れる譯に行かなかつた。あたりは森として靜かである。此棟に不自由な身を託した患者は申し合せた樣に默つてゐる。寐てゐるのか、考へてゐるのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履の音さへ聞えない。その中に此ごし/\と物を擦り減らす樣な異な響丈が氣になつた。
 自分の室はもと特等として二間つゞきに作られたのを病院の都合で一つ宛に分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になつてゐるが、寢床の敷いてある六疊の方になると、東側に六尺の袋戸棚があつて、其傍が芭蕉布の襖ですぐ隣へ徃來が出來るやうになつてゐる。此一枚の仕切をがらりと開けさへすれば、隣室で何を爲てゐるかは容易く分るけれども、他人に對して夫程の無禮を敢てする程大事な音でないのは無論である。折から暑さに向ふ時節であつたから縁側は常に明け放した儘であつた。縁側は固より棟一杯細長く續いてゐる。けれども患者が縁端へ出て互を見透す不都合を避けるため、わざと二部屋毎に開き戸を設けて御互の關とした。夫は板の上へ細い棧を十文字に渡した洒落たもので、小使が毎朝拭掃除をするときには、下から鍵を持つて來て、一々此戸を開けて行くのが例になつてゐた。自分は立つて敷居の上に立つた。かの音は此妻戸の後から出る樣である。戸の下は二寸程空いてゐたが其處には何も見えなかつた。
 此音は其後もよく繰返された。ある時は五六分續いて自分の聽神經を刺激する事もあつたし、又ある時は其半にも至らないでぱたりと已んで仕舞ふ折もあつた。けれども其何であるかは、つひに知る機會なく過ぎた。病人は靜かな男であつたが、折々夜半に看護婦を小さい聲で起してゐた。看護婦が又殊勝な女で小さい聲で一度か二度呼ばれると快よい優しい「はい」と云ふ受け答へをして、すぐ起きた。さうし…

えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko