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![]() こうふ |
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作品ID | 774 |
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著者 | 夏目 漱石 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夏目漱石全集4」 ちくま文庫、筑摩書房 1988(昭和63)年1月26日 |
初出 | 「朝日新聞」1908(明治41)年1~4月 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 1999-04-13 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 286 ページ(500字/頁で計算) |
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さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。
東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない。
足はだいぶ重くなっている。膨ら脛に小さい鉄の才槌を縛り附けたように足掻に骨が折れる。袷の尻は無論端折ってある。その上洋袴下さえ穿いていないのだから不断なら競走でもできる。が、こう松ばかりじゃ所詮敵わない。
掛茶屋がある。葭簀の影から見ると粘土のへっついに、錆た茶釜が掛かっている。床几が二尺ばかり往来へ食み出した上から、二三足草鞋がぶら下がって、袢天だか、どてらだか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。
休もうかな、廃そうかなと、通り掛りに横目で覗き込んで見たら、例の袢天とどてらの中を行く男が突然こっちを向いた。煙草の脂で黒くなった歯を、厚い唇の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端に、向うの顔は急に真面目になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出っ喰したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据えたまま、白眼の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂を跨いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口がある。三十二銭這入っている。白い眼は久留米絣の上からこの蟇口を覘ったまま、木綿の兵児帯を乗り越してやっと股倉へ出た。股倉から下にあるものは空脛ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食ッ附いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕が黒くついた俎下駄の台まで降って行った。
こう書くと、何だか、長く一所に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否や急に茶店へ休むのが厭になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々覚束なかった…