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軍用鮫
ぐんようざめ
作品ID870
著者海野 十三
文字遣い新字新仮名
底本 「十八時の音楽浴」 早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日
入力者大野晋
校正者福地博文
公開 / 更新2000-03-08 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 北緯百十三度一分、東経二十三度六分の地点において、楊博士はしずかに釣糸を垂れていた。
 そこは嶮岨な屏風岩の上であった。
 前には、エメラルドを溶かしこんだようなひろびろとした赤湾が、ゆるい曲線をなしてひらけ空は涯しもしらぬほど高く澄みわたり、おつながりの赤蜻蛉が三組四組五組と適当なる空間をすーいすーいと飛んでいるという、げに麗らかなる秋の午さがりであった。
 楊博士の垂らしている糸は、べらぼうに長い。もちろんひどい近眼の博士に、はるけき水面を浮きつ沈みつしている浮標などが見えようはずがなかった。博士は、ただ釣糸の上を伝播してくるひそかなる弦振動に、博士自身の触覚感を預けていたのであった。
 目の下二尺の鯛が釣れようと、三年の鱸が食いつこうと、あるいはまた間違って糸蚯蚓ほどの鮠(註に曰く、ハエをハヤというは俗称なり。形鮎に似て鮎に非なる白色の淡水魚なり)がひっかかろうと、あるいは全然なにも釣れなくとも、どっちでもよいのであった。釣を好むは糸を垂れて弦振動の発生をたのしむなり。いや弦振動の発生をたのしむに非ず、文王の声の波動を期待するのにあったろう。
 楊博士は、近代の文王とは、誰のことであろうかなどと、つれづれのあまり考えてみることもあった。チャンカイシャという青年将校が文王になりたがっていたが、あれは今どうしているだろうかなどと、博士は若い頃の追憶にふけっていた。
「ああ楊博士、ここにおいででしたか」
 と、突然博士は自分の名をよばれてびっくりした。
 顔をあげてみると、そこには立派なる風采のトマトのように太った大人が、女の子のような従者を一人つれて立っていた。博士はその方をジロリと見ただけで、またすぐ沖合の灰色のジャンク船の片帆に視線はかえった。
「ああ楊博士、あなたをどんなにお探ししていたか分りません。周子の易に(北緯百十三度、東経二十三度附近にあり、水にちなみ、魚に縁あり、而して登るや屏風岩、いでては軍船を爆沈す)と出ましたが、ああなんたる神易でありましょうか」
「……」
 博士は闃として、化石になりきっていた。
「もし楊博士、猛印からのお迎えでありますぞ」
「猛印といえば――」と博士はこのときやおら顔をあげて、「猛印といえば、北京の南西二五〇〇キロメートル、また南京の西南西二〇〇〇キロメートル、雲南省の遍都で、インド王国に間近いところではないか。雲南などへ迎えられては、わしは迷惑この上なしだ」
「いや博士、猛印こそわが中国の首都でありますぞ」
「わしを愚弄してはいかん。中国の首都がインドとわずか山一つを距たった雲南の国境にあってたまるものか。第一そんな不便な土地に、都が置けるかというのだ。この屏風岩から下へとびこんで、頭など冷やしてはどうか」
「いやそれが博士、あなたのお間違いですよ。あなたこの頃、ニュース映画をごらんになりませんね。首都が北京だ…

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