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クサンチス
クサンチス
作品ID892
原題XANTHIS
著者サマン アルベール
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第14巻」 岩波書店
1979(昭和54)年12月19日
初出「新小説 一六ノ七」1911(明治44)年7月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄
公開 / 更新2000-05-11 / 2016-02-01
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 飾棚だの飾箱だのといふものがある。貴重な材木や硝子を使つて細工がしてある。その小さい中へ色々な物が逃げ込んで、そこを隠れ家にしてゐる。その中から枯れ萎びた物の香が立ち昇る。過ぎ去つた時代の、人を動かす埃がその上に浮かんでゐる。昔の人のした奢侈の、上品な、うら哀しい心がそこから啓示せられるのである。
 己はさういふ棚や箱を見る度に、こんな事を思ふ。なんでも幅広な、奥深い帷に囲まれて、平凡な実世界の接触を免かれて、さういふところでは一種特別な生活が行はれてゐるのではあるまいかと思ふ。真成なる有といふものがあるとすれば、それに必要な条件が、かういふところで、現実的に、完全に備はつてゐるのではあるまいか。もし物に感じ易い霊のある人がゐて、有用無用の問題をとうとう断絶してしまつて、無条件に自然の豊富に己を委ねてしまつたら、かういふ棚や箱が、限なく尊いエリシオンの原野になるのではあるまいか。
 己はかういふものを楽んで見るのが縁になつて、色々自分の為めになる交際を結ぶことが出来た。中にも己は或る古い、銀の煙草入れと近附きになつた。その煙草入れには、アレクサンドロス大帝が印度王ポロスを征服した戦争の図が、極めて細密に彫り附てあつたのである。この煙草入れが、先頃日の暮れ方の薄明りに、心持の幽玄になつた時、親切にも或る話をして聞かせてくれた。その話は人に物の哀を感ぜさせ、興味を催させ、道義の念を感発せしむる節の頗る多い話であつた。己はその話をこゝに書かずにはゐられない。これはその話を聞いて、実際さうであつたかと信ずる事の出来る程、夢見心になることの好な人に読ませる為めに書くのである。
 ルイ第十五世時代に出来た飾箱の中に、何一つ欠点の挙げやうのない、美しい、小さいタナグラ人形があつた。明色の髪の毛には、菫の輪飾が戴かせてある。耳朶にはアウリカルクムの輪が嵌めてある。きらめく宝石の鎖が胸の上に垂れてゐる。体が頭の頂から足の尖まで羅ものに包まれてゐて、それが千変万化の襞を形づくつてゐる。その羅ものの底から、体のうら若い、敏捷な態度が、隠顕出没して、秘密げに解け流れる裸形になつて見えるやうである。
 この人形の台に彫つてある希臘文字を見れば、この女の名はクサンチスといふものである。生れた土地はクリツサといつて、近くに豊饒な平野が多く、その外を波の打ち寄せる海に取り巻かれてゐる都会であつた。
 クサンチスは実にこの飾箱の中の第一の宝である。
 折々クサンチスは台から下へ降りて来て、大勢が感嘆して環り視てゐる真中に立つて、昔アルテミスの祠の、円柱の並んだ廊下で踊つた事のある踊を浚つて見る。金の輪を嵌めた、小さい足を巧みに踏んで、真似の出来ない姿をして、踊の段取りを見せる。その間に、自分では知らずに、変幻極まりなく、且最も深遠な事物を表現する。そして踊つてしまつて、真つ直ぐに、誇りの姿…

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