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雪の白峰
ゆきのしらね
作品ID912
著者小島 烏水
文字遣い新字新仮名
底本 「山岳紀行文集 日本アルプス」 岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日
入力者大野晋
校正者地田尚
公開 / 更新1999-11-25 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 アルプスに Alpine Glow(山の栄光)という名詞がある、沈む日が山の陰へ落ちて、眼にも見えなくなり、谷の隅々隈々に幻の光が、夢のように彷徨い、また消えようとするとき、二、三分の間、雪の高嶺に、鮮やかな光が這って、山の三角的天辺が火で洗うように耀く、山は自然の心臓から滴れたかと思う純鮮血色で一杯に染まる、まことに山の光栄は落日である、さればラスキンも『近世画家論』第二巻に、渚へ寄する泡沫と、アルプス山頂の雪とは、海と山とを描いて、死活の岐れるところだというような意味で書いてある、落日より億万の光線を吸収して、その一本一本に磨きをかけるのは、山の雪である、アルプスばかりではない『甲斐国志』にも、白峰の夕照は、八景の一なりとある、山の雪は烈しい圧迫のために、空気泡を含むことが少ないから、下界の雪のように、純白ではない、しかも三分の白色を失って、三分の氷藍色を加え、透明の微小結晶を作って、空気の海に、澄徹に沈んでいる、群山の中で、コバルト色の山が、空と一つに融ければとて、雪の一角は、判然と浮び上る、碧水の底から、一片の石英が光るように。
 蒼醒めて、純桔梗色に澄みかえる冬の富士を、武蔵野平原から眺めた人は、甲府平原またはその附近の高台地から白峰の三山が、天外に碧い空を抜いて、劃然と、白銀の玉座を高く据えたのを見て、その冴え冴えと振り翳す白無垢衣の、皺の折れ方までが、わけもなく魂を織り込もうとするのに魅せられるであろう、水を打ったように粛んみりとした街道の樹も顫え、田の面の水も、慄然として震えるような気がするであろう。
 自分は甲斐精進湖に遊んで、その近傍の山から、冬の白峰を見たことを、鮮やかに記憶している、空線の上に、夢みる巨人は、下界の水平線上、青春の国の炎の中で、夢を見ている自分と、向き合った、彼の夢には冷たけれども光があった、自分の夢は、彼に吸収されていつしか化石のような自分を融かしてしまった、自分は無意識に古人の言ったことを繰り返えす、「北に遠ざかりて雪白き山あり」もうそれでよい、ただ白峰でよい。
 雪によって名を得たものに、飛騨山脈の大蓮華山、また白馬岳があるし、蝶ヶ岳もある、しかし虚空に匂う白蓮華も、翅粉谷の水脈より長く曳く白蝶も、天馬空を行かず、止まって山の肌に刻印する白馬も、悉く収めて、白峰の二字に在る、「北に遠ざかりて(何等の神秘)雪白き山あり(何等の高潔)」即ち白峰である、何という透き通った感じのする山であろう、この外に美しい名もなければ、涼しい名もない、やさしい名もなければ、威厳ある名もない。
 自分は昨年塩山の停車場で、白ペンキ塗の広告板に、一の宮郷銘酒「白嶺」と読んで、これは「雪の白酒」ではあるまいか、さぞ芳烈な味がすることであろうと思った、また他で製糸所の看板に、白嶺社とあるのを見て、この社の糸の光には、天雪の輝きがあろう、衣に…

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