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作品ID | 948 |
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著者 | 徳田 秋声 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「明治文學全集68 徳田秋聲集」 筑摩書房 |
入力者 | 網迫 |
校正者 | awatase |
公開 / 更新 | 1999-02-12 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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『オイ/\何處へ行くんだよ。』
とお大と云ふ裏町のお師匠さんが、柳町の或寄席の前の汚い床屋から往來へ聲をかける。
聲をかけられたのは、三人連の女である。孰も縞か無地かの吾妻に、紺か澁蛇の目かの傘を翳して、飾し込んでゐるが、聲には氣もつかず、何やら笑ひさゞめきながら通過ぎやうとする。
『オイ/\、素通は不可いよ。』とお大は一段聲を張あげて憤れつたさうに、
『此にお大さんが控えて居るんだよ、莫迦野郎唯は通しやしないよ。』
三人のうちで、一番丈の高いお山と云ふ女が偶と振顧くと、『可厭だよ。誰かと思つたらお大なんだよ。』と苦笑しながら罰が惡いと言ふ體で顏を見る。
『フン、また芝居だろ。』とお大は赭顏に血走つたやうな目容をして、『好い年をして好い氣だね。』
お山と云ふのは、もう三十四五の年増である。お大の姉で、此も常磐津のお師匠さんなのだ。亭主が此塲末の不景氣な床屋で、宅には小供が三人まであるが、其等は一切人の好い亭主に敲つけておいて、年中近所の放蕩子息や、若い浮氣娘と一緒になつて、芝居の總見や、寄席入りに、浮々と日を送り、大師詣とか、穴守稻荷とか、乃至は淺草の花屋敷とか、團子坂の菊とか云ふと、眞先に飛出して騷[#挿絵]る。
一二年前までは、妹のお大を臺所働やら、子供の守やら、時偶代稽古などにも使つて、頤で追[#挿絵]してゐたものが、今では妹の方が強くなり、町内の二三の若者が同情して、後楯になつてくれたのを幸ひ、姉と大喧嘩をして、其まゝ別れ、別に一世帶構へることになつた。其以來二人は前世の敵か何ぞのやうに仲が惡い。
お山は二歩三歩進寄つて、『何だよ大きな聲で……芝居に行かうと、何に行かうと餘計なお世話ぢやないか。お前に不義理な借金を爲てありやしまいし。』と言つて奧を窺込むと、丁度凸凹なりの姿見の前で、職工風の一人の男の頭にバリカンをかけてゐる、頭髮のモヂヤ/\した貧相な此の親方に、『今日は。』と挨拶する。
親方はガリ/\遣りながら、『よく降るぢやござんせんか。今日は本郷座ですね。』
『ハア、今日はお義理でね。眞實に方々引張られるんで、遣切れやしない。今日あたり宅に寐轉んでる方が、いくら可いか知れやしない。』
『巧く言つてるよ。』とお大は嫣然ともしない。
床屋はちよい/\お山の顏を見ながら『お山さんは、何時でも引張凧だからね。』
『誰が引張るもんか。』とお大は相變らず喧嘩腰で、焦燥しながら『子供に襤褸を着せておいちや、年中役者騷ぎをしてゐるんぢやないか。亭主こそ好い面の皮だ。』
『何だね此人は。然云ふお前は何だえ。』とお山は憎さげにお大の顏を見詰めて、『今日は酒にでも醉つてるんぢやないかい。可厭に人に突かゝるぢやないか。アヽ解つた、お前此頃松公に逃を打たれたと云ふから、其で其樣なに自棄糞になつてるんだね。道理で目の色が變だと思つた。オヽ物騷々々!』
床…