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作品ID962
著者武田 麟太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」 筑摩書房
1967(昭和42)年
入力者山根鋭二
校正者伊藤時也
公開 / 更新1999-10-19 / 2014-09-17
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 どんな粗末なものでも、仕立下しの着物で町を歩いてゐて、時ならぬ雨に出逢ふ位、はかないばかり憂欝なものはない。いや、私の神経質は、ちよつと汗をかくのにも、ざらざらと砂埃を含んだ風に吹きつけられるのにも、あるひはまた乗物や他家の座席の不潔さにも、やり切れない嫌悪の情を起させるほどである。ある夏の日、私は浅草に近い貧民窟で、――そこで知合になつた男について、物語らうとするのがこの小説であるが、――狭つ苦しい裏町のトタン屋根の傾いた一軒で、半裸体の男が、どう見ても芸者の出の着物らしい華美で豪奢なものを縫つてゐるのを目撃してぞつとしたことがある。その座敷着の品質や柄模様を詳しく述べるだけ私に和服の知識がないのは残念だが、とにかく、裾を引いた艶やかな女の肢体や脂粉の香さへも一瞬に聯想される不思議な色気を持つた仕立物が、恐らく指先から流れる汗も褐色ではないかと考へられるやうな垢黒い男の手にかかり、べとべと光つてゐるその股や腕に無造作に置かれてゐた。私は、ある一種の皮肉な気持よりも、たまらない感じに襲はれて、視線を逸らしたものだ。自分の知らない間に、かうしてどれだけ他人の汗や垢のしみをつけられてゐるのか分らないのだから、自分だけが潔癖がつてゐても仕方なからうと思ふこともあるが、それでもやはり、着はじめた当座は、一切の汚れを避けたいと、誇張して云へば、小心にも戦々兢々としてゐる。
 だが、それが、……それもほんのはじめのうちだけである。暫く着古して、自然と垢づいて来ると、もうかまつたものではない。雨に濡れようと、泥水がはねかからうと、どす黒く足跡のついた畳の上へ、そのままごろ寝しても、まるで気に病まなくなるのだ。自分でもをかしい位の変化である。
 また、無類の入浴好きで、場合によつては日に二度も三度も、用足しの途中、行き当りばつたりに馴染のない銭湯に飛び込む癖さへある私だが、そして、その度毎に莫迦叮嚀に洗ひ浄めねばやまぬ私にも拘らず、何かの都合で、一日二日入れずにゐると、もう、あの浴後の全身がさつぱりと軽くなり、豊かにのびのびとしたありがたい感触を忘れて了つたかのやうになる。日が経つに従つて、級数的に入浴が面倒で億劫になり、さては、爪垢がたまつて、肌はじとじとしはじめ、鼻わきから頤にかけててらてらと油は浮くし、目脂はたまり放題、鼻糞は真黒にかたまつてゐる、身体を動かせば悪臭がにほつてるにちがひないのに、更に意に介しなくなるのだ。いや、時には、もつともつと身体を汚してみないかと、私かに自分にけしかけて、じつと蘚苔のやうなものが、皮膚に厚くたまるのを楽しんでゐるかに見えたりする。
 私の歯のことを、読者は知つてゐるだらうか。上の前歯は二本は完全に根まで抜けて了つて、他の二本も殆ど蝕まれて辛うじて存在をとどめてゐる。下の門歯も内側からがらん洞が出来て、いつまで保つか分らない。奥歯…

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