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一の酉
いちのとり
作品ID978
著者武田 麟太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」 筑摩書房
1967(昭和42)年
入力者山根鋭二
校正者伊藤時也
公開 / 更新1999-10-19 / 2014-09-17
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 帯と湯道具を片手に、細紐だけの姿で大鏡に向ひ、櫛をつかつてゐると、おきよが、ちよつと、しげちやん、あとで話があるんだけど、と云つた、――あらたまつた調子も妙だが、それよりは、平常は当のおしげをはじめ雇人だけではなく、実の妹のおとしや兄の女房のおつねにまでも、笑ひ顔一つ見せずつんとしてすまし込んでゐるのに、さう云ひながら、いかにも親しさうな眼つきでのぞき込んだのが不思議であつた。
「なにさ」――生れつき言葉づかひが悪くて客商売の店には向かぬとよくたしなめられるのだが、この時も相手が主人すぢの女にもかかはらず、おしげはぶつきら棒に云つた。
 おきよは、もう男衆が流し場を磨き、湯桶を片づけはじめた中で、ゆつくり襟白粉をつけてゐる妹たちをちらと見て、さア、二人でさきに出ちまはうよ、と促した、何が何だか判らないままに、おしげは押されるやうにして湯屋の表へ出た、もう冬近く、すぐに初酉なのに今年は例年よりあたたかくて、吹く風も湯あがりの上気した頬に快かつた、馬道の大通りにまだ起きてゐる支那ソバや十銭のライスカレーを食はせる店があつた、おごるわよとおきよはガラス戸を開けた、公園の稼ぎから帰る小娘や、自動車の運転手たちが夜食をしてゐるのを横眼に、汚れたテーブルにつくと、おきよはメニューを眺めながら、あんた何がいい、と聞いた、さうねえ、とおしげは壁の品書を見上げて、私、トーストをいただくわ、ヂャミの、とそこはやはり御馳走になるので丁寧に答へた。
 おきよは肘をついて、ぢつと彼女に眼を注いだ、いやよ、そんな、――とおしげは指さきで眼頭を触つた、同じ店で客相手に働いてゐても主人の妹であるのを笠にきてゐる彼女は、いくらおしげが虫が好かないひとだと思つてゐても、かうやつてゐると年上ではあるし、評判の美しさに圧されるのであつた。
「何ですの、――御用つて」
 気がかりだから、早く云つてと促した。
「――あんた、この頃、いやにめかすのねえ」
 おきよに云はれて、故もなくおしげは赤くなるのを感じた、さうか知ら、めかしているか知らと彼女は、意地の悪いおきよが、いくら磨かうたつて、下地がいけないんだから、と嘲つてゐるやうな気がした。
「無理ないわ、十七だもの」
 ふつと、彼女は下唇を出して笑つた。
「私、男みたいだつて、いつも母ちやんに云はれてるのよ、もつと、いい加減に大人らしくしたらいいぢやないかつて――」
「さうよ、もう大人よ、あんた――」
 あら、と云つておしげはまた真赤になつた。汗が出るほどで、そつくり冷くなつてゐる手拭ひを取りあげたりした。
「ねえ、しげちやん、――私、あんたの肩を持つわ、しつかりおやりよ」
 どちらかと云へば昔風の長めの顔をかしげて云ふのであった、おしげは黙つてゐた、わけが判らなかつた。
「――義姉さんに遠慮することなんかありやしない、そのうち、兄さんと相談してあん…

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