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釜ヶ崎
かまがさき
作品ID980
著者武田 麟太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」 筑摩書房
1967(昭和42)年
入力者山根鋭二
校正者伊藤時也
公開 / 更新1999-12-15 / 2014-09-17
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――このやうに、ある大阪地誌に下手な文章で結論されてゐる釜ヶ崎は「ガード下」の通称があるやうに、恵美須町市電車庫の南、関西線のガードを起点としてゐるのであるが、さすがその表通は、紀州街道に沿つてゐて皮肉にも住吉堺あたりの物持が自動車で往き来するので、幅広く整理され、今はアスファルトさへ敷かれてゐる。それでも矢張り他の町通と区別されるのは五十何軒もある木賃宿が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織込んで、陰欝に立列んでゐるのと、一帯に強烈な臭気が――人間の臓物が腐敗して行く臭気が流れてゐることであらう。
 一九三二年の冬の夜、小さな和服姿の「外来者」が唯一人でこの表通を南の方へ歩いてゐた。冷い雨が降つて、彼のコーモリ傘を握つた指先も凍れて痺れてゐるのに、別にここで宿を求めるでもなく、人を訪ねるけしきもなく、ゆつくりとした足どりであつたが――その様子を、家の軒端に立つて、今まで首巻代りにしてゐた手拭で頬被りし、腕組んでゐる宿なしたちも別に注意しなかつたし、交番所の年とつた巡査も怪しまなかつたところを見ると、その外来者は、この土地に適した顔かたちをしてゐるのだらう。さう云へば、実は彼は東京に住む小説家であるが、批評家たちがいつでも口癖のやうに「彼にはルンペン性があつて、どうもよくない」と眉をしかめてゐるのも思ひ当るふしがないでもない。――しかし、彼はこの寒さに何の気紛れからして、あんなに物思ひに沈んだ表情でこの地帯を行くのかと、人は問ふかも知れぬ。それは過去をなつかしむ感情に駆られた結果である。と云ふのは、彼はこの街で生れ十二まで育つたのであるが、ほんの三日前、ここで彼を手塩にかけて大きくした母親が急死し、その追憶の念が彼の足を知らぬうちに、こちらへと向けさせたわけである。もとより彼はまだ年少で、自分の激情を制するすべもわきまへぬ男故、要もないかうした夜歩きや感傷癖を許してやつてもよいだらう。
 すでに、街から醗酵する特殊な臭ひは聯想作用を起して、彼の胸に種々な過去の情景を浮びあがらせ、彼はそれに簡単に陶酔して了つてゐたので、その尖つてゐる眼もいつに似ず柔和に光り、何も見てゐないに近かつたのである。唯、去来する思ひが――たとへば、袋物工場に通つてゐた母親が、夜も休まず石油の空箱を台にして(その箱の隅には小さな蜘蛛が綿屑みたいな巣をかけてゐた!)セルロイド櫛に、小さな金具の飾をピンセットで挟み、アラビヤゴムと云ふ西洋の糊でつける仕事をしてゐる横に、新聞紙にくるんだ芋が置かれてある有様や、そして、その芋は彼女の夕飯代りなのだが、夜更けると子供たちが腹をすかせるので、彼女は大半を残して置き、子供たちがせびると「何云ふねん、こらおかんのや」…

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