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平安朝時代の漢文学
へいあんちょうじだいのかんぶんがく
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第九卷」 筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日
初出史學地理學同攻會夏季講演會講演、1920(大正9)年8月
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-11-14 / 2016-04-20
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 平安朝の前半期には專ら漢文學が行はれ、後半期には國文學が興つたが、此の國文學が興つたのは漢文學の刺激に依るのである。大體日本の文化は支那文化の刺激によつて發達したのであるが、然し文化を生育すべき素質は初めから日本にあつたので、此の點は他の支那に近い邦々と異つて居る。即ち朝鮮には我が假名の如き諺文があるが、少數の歌謠の外、諺文文學といふものが遂に發達しなかつた。これを公に用ふる事になつたのは日清戰爭後の事であつて、かゝる事は古來數千年間無い所であつた。其の他の國は申すに及ばない。只日本のみは日本文學を有して居たのであるが、然し支那よりは後に發達した國であるからして、支那の刺激を受けたのは亦已むを得ぬ次第である。
 支那の文化が日本の文化に影響した事を知らうと思へば、先づ制度の方から知らねばならぬが、平安朝には專ら唐の制度が日本に行はれ、大學の制度もやはり唐の摸倣であつた。唐では國子監で大學の事を司つたが、日本では大學寮で之れを司つた。此の大學といふ名は漢の制度の名を取つたのであるが、其の制度の内容は全く唐の制度に依つたのである。唐の國子監は國子學と太學と四門學とに分れ、各博士あり助教があつて、廣く貴族より平民に至るまでの子弟を收容した。即ち國子學は三品以上の貴族の子弟、太學は五品以上の貴族の子弟、四門學は七品以上の貴族及び庶人の子弟を入れた。此の庶人の子弟であつて四門に入る者は、俊士生と云ひ、全くの平民であつたが、日本では學令によると平民を入れる事はなかつた。之れは平民が未だ大學に入る程には發達して居らなかつたからである。又日本の大學の教科目は如何と云ふに、明經道、紀傳道、明法道、算道、書道、音道等であつて明經道では九經(三經、三傳、三禮即ち詩經、書經、易經、公羊傳、穀梁傳、左氏傳、周禮、儀禮、禮記)を研究し、紀傳道では史記、漢書、後漢書を研究し、この方は史學であると共に文學であつた。明法道とは法律學で音道とは字音學であるが、此の音道は支那へ遣唐使留學生を派遣するために必要であつたのである。
 當時日本固有の文化と云ふものは未ださう進歩して居らなかつたからして、從て日本固有の學問と云ふものも無く、大學の學生は初めから支那の學問をしたのであつて、今日の支那人でも感心する樣な立派な漢文を既にその頃の日本人が書いて居るが、今日我々に此れ程の漢文を書けと云はれても書けない。それは生れるから直ぐ支那の學問をすると云ふ樣な境遇に居らないからであつて、恐らく西洋の文學をやる人でも、此點は同じで、王朝の漢文と同程度の英文なり、獨文なりを書くことは困難であらうと思ふ。
 此の時代の特色は純日本種の學者が出て、學問の家業が出來たと云ふ事である。奈良朝の學問は歸化人の學問であつて、懷風藻の作者の中でも其の四分の一以上は歸化人若くは其の子孫であつたが、平安朝の學者の大部分は日本人で…

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