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坂田の場合
さかたのばあい
副題――「小悪魔の記録」――
――「こあくまのきろく」――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「文芸春秋」1936(昭和11)年7月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-05-30 / 2014-09-21
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 坂田さん、じゃあない、坂田、とこう呼びずてにしなければならないようなものが、俺のうちにある。というのはつまり、彼自身のうちにあるのだ。
 母親がまだ達者で、二人の女中を使って家事一切のことをやってくれている。家の中はこぎれいに片付き、畳や唐紙も古くなく新らしくなく、家具調度の類も過不足なくととのい、座敷の床の間にはいつも花が活けてある。中流社会の生活伝統といったものが、黴もはやさず、花も咲かせず、しっとりと落付いている恰好で、万事万端につけて、貧相な点もなく、贅沢な点もなく、野心もなく、失意もなく、まさに中庸を得ているというわけなのである。そしてこういう生活には、その背景として、父祖から伝えられてる少しの財産と、凡庸な家長とが、予想されるものである。
 ところが、この二つの背景が、実は均衡がとれていなかった。
 家長、というのは即ち坂田で、彼は或る意味では凡庸なのだが、或る意味では凡庸の枠縁からはみ出していて、而もそれが、賢愚いずれの方へはみ出しているか見当がつかなかった。彼についてはいろんな噂がある。むかし学生だった頃、哲学書を読み耽った揚句、思想の整理がつかなくて、自殺をはかったとの話もある。また、剣道二段の腕前で、街の不良どもを従えて、一方の首領として暴れまわったとの話もある。がっしりした体躯で、脂肪の少いよい肉附で、鼻の秀でた色白の好男子だが、特質としては、頬がひどく蒼ざめていて、血行がとまったかと思われることがあり、眼差しがぼんやりして、ただ宙に浮き、仮睡の直前にあるような感じを与えることがある。そしてごく稀に、何かの感情の激発によって、頬にぱっと赤みがさし、眼の底がぎらぎら光ってくる。云わば、一つの顔の下から、ふいに他の顔が覗きだすといった工合だ。四十歳に近い現在まで、未だに独身生活をしているので、私行についてはさまざまの話もあるが、それがみな、茲に取立てて述べるにも価しないような単なる浮気沙汰で、女と同棲したという噂もないし、恋愛じみた話が少しもないのは、注意を要する。数年前、亡父と縁故のある会社を自ら罷めてからは、別に為すこともなく、或る経済雑誌社に出資者とも顧問ともつかず関係してるだけで、始終ぶらぶら出歩いていて、家にいる時には、経済や文芸や自然科学などの雑書を、全く無秩序に乱読してるか、それよりもなお多く、ねころんでうつらうつらしている。睡眠にかけては実に貪婪なのだ。昼寝をしておいて、夕食に起きてきて、夕刊新聞を見てしまうと、またすぐ寝床にはいることがある。精神的にか肉体的にか、なにか病気なのかも知れない。そして彼は現在では、三十万余の金を持っている。そしてなお殖えつつある。而もそれが殆んど全部、不動産はなくて株券か現金かなのだ。だがこのことについては先に述べよう。
 右のような坂田とその財産とは、落着いた慎ましい中流生活にとっては、不…

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