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小説の内容論
しょうせつのないようろん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-01-24 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 小説の書かれたる内容が問題となってもいい位に、吾国の小説界は進んでいると思う。またそれを問題となさなければならない位に、小説界は或る壁に突き当っていると思う。

 私は今、「書かれたる内容」と云った。このことについて、一言しておく必要がある。
 如何なる材料を取扱おうと、それは作者の自由である。愚劣なる人物を描こうと、或は賢明なる人物を描こうと、それは作者の勝手である。然るに、作品の批評に当って、作中人物と作者とを混同するが如き誤謬が、往々にして見られる。作中人物が、その境涯に於て作者と非常に異る場合には、かかる誤謬は殆んどない。けれども、年齢に於て境遇に於て、両者の間の距りが少なければ少ないほど、かかる誤謬が益々多くなる。この誤謬に陥った批評家は、作中人物が利己主義者なるの故を以て、作家に利己主義の態度を非難する。作中人物が神経衰弱なるの故を以て、作家をも神経衰弱だとする。これは宛かも、某々の作品は事実かと作者に尋ねるが如きものである。もし一歩進んで、作中人物が狂人なるの故を以て、作者をも狂人なりとしたならば、その愚さに呆然たらざる者はあるまい。
 無理解な批評家をかかる誤謬に陥らせるのは、一方から云えば、作品の優れたる所以となる。なぜなら、作中人物が実在の作者と同一視せられるまでに、生々と描写せられてるわけになるから。然しながら、理解ある批評家をかかる誤謬に陥らせるのは、一方から云えば、作品に欠陥ある所以となる。なぜなら、作中人物に対する作者の眼が、徹底を欠いてるわけになるから。
 創作中の作者には、二つの働きがある。一は描出の働きであり、一は批判の働きである。
 作者は、あくまでも作中人物を生かしぬこうと努める。それがために、その人物に独自の個性を与えんとする。この個性は、作者が勝手に手を触るることを得ないものである。作者は、その人物が狂人ならばあくまでも狂人たらしめ、賢者ならばあくまでも賢者たらしめんとする。即ち狂人として描き、賢者として描く。この時作者は、作中人物になりきると云ってもいい。かかる働きを「描出の働き」と、かりに私は名づけたい。そして、この描出の働きの結果が、即ち作品の「書かれたる内容」となる。之を具体的内容と云ってもいい。
 作者はまた一方に、絶えず作中人物を見守ってゆく。その一挙一動を見守って、それに或る意義を持たせてゆく。かかる作者の眼は、作中人物の意識しない底にまで透徹せんと努める。また透徹しなければいけない。なぜなら、芸術品は写真であってはならないから。かかる眼の働きが、真に作品の深さと価値とを生ぜしむるのである。作者が豪ければ豪いほど、この眼が益々強く深く働く。かかる働きを「批判の働き」と、私はかりに名づけたい。そして、この批判の働きの結果が、即ち作品の「書かれざる内容」となる。なぜなら、右の批判は、決して文字に現わすべき…

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