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球体派
きゅうたいは
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者田中敬三
公開 / 更新2006-05-19 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は友人の画家と一緒に夜の街路を歩いていた。二人とも可なり酔っていた。どういう話の続きか覚えていないが、彼はしきりに球体派という言葉をくり返していた。
「日本画と西洋画との本質的なちがいは、日本画は線で物を把握し、西洋画は面で物を把握する、というところにある。ところがこの面というものが甚だ厄介で、ともすると平面になってしまう。平面の集まりになったんじゃあ、絵が死んでしまうし、物のヴォリュームは出てこない。面其のものを直接に取扱う彫刻にしたって、見給え、大抵は死んでるのが多いじゃないか。面を生かす……ヴォリュームの力で底からまるくふくれ上ってくる……そういうところに僕の努力や苦心があるんだ。立体派をもう一つ先の球体派というところまでつきぬけるんだ。」
「球体派は賛成だ。」と私は叫んだ。「なぜかなら……。」
 私達が歩いている街路は、大震災後四五年たって――余りに遅すぎるが――漸く復興されてる最中だった。その上道路も修繕中だった。鉄骨、木片、コンクリート、レール、舗石、其他大都会のあらゆる素材が、乱雑に堆積していた。そしてその中に、ところどころに、出来上りつつある建物の断片が、曲線を見せてる横顔が、思いがけなく覗き出していた。それは私に一種の喜びを与えた。煩雑な幾何学的図形の中に、生々とした球面をふと見出した時の喜び――ピカソの画面の中に肉体的ヴォリュームを見出した時の喜び……。それにまた、通行人等の身体が、夜の街路の上に如何にも弾力性を帯び、その眼が、街灯の光の中に如何にも生気に満ちていた。
「そうだ、これらの持つ美は、一種の球体的な美だ。」
「眼球の美だ。」
 人間の眼球は、と画家は云うのだった、どんなものでも測り知られぬ美を持っている。どんな年齢の眼も、どんな生活の眼も、みな美しい。養老院の中庭に日向ぼっこしている老人の眼も、酒にただれた売笑婦の眼も、それぞれの美しさを持っている。その美しさは、真正面から見たのではよく分らないかも知れないが、横から、斜め横から見れば、誰にでも、「素人」にでも分る。満員の電車に鮨詰めになっている雑多な人々の眼、それを斜め横から、眼瞼の下に円くふくらんでいる、そのふくらみが分るほどの角度で見れば、どれもみな素晴らしく美しい。透明な液体につつまれた、白と黒との生きた球体だ。
「恋人の眼をのみ美しいと云う勿れ。」
 だが、眼球をのみ美しいと云う勿れ。私はその時、撞球の象牙の球を頭の中に眺めていた。きれいに拭きこまれた赤と白との象牙の球――あらゆる色合の光と物象とを映して、青羅紗の上をなめらかに滑りゆく、赤と白との象牙の球……。
 いや、眼球や象牙の球ばかりではない。凡て球形のものには、円満具足の美があって、長い観賞に堪える。球形を見て喜びと和ぎとを感じないものは、邪悪な心である。球形は完成の姿である。寺院の円屋根には一種神秘な意…

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