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安吾巷談
あんごこうだん
副題09 田園ハレム
09 でんえんハレム
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 08」 筑摩書房
1998(平成10)年9月20日
初出「文藝春秋 第二八巻第一二号」1950(昭和25)年9月1日
入力者tatsuki
校正者宮元淳一
公開 / 更新2006-02-17 / 2014-09-18
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 大戦争のあとというものは何がとびだすか見当がつかない。日本全土の主要都市が焼野原だから、どういう妖怪変化がとびだしても不似合ということはない。
 覚悟はしていたことだから、パンパンやオカマや集団強盗など月並であったが、アロハにはおどろいた。
 なにぶん、アロハというものは、妖怪として登場したものではない。ともかく焼跡にも建設的な気風が起り、いたずらに戦争の惨禍を身につけてデカダンスに身をもちくずしてはいかんというような大方の輿望にこたえて、美とは何ぞや、これである。戦後、美意識の初の出動がアロハであったから、この次には何がでるかと思うと、怖れおののいたのである。
 ストリップなどゝいうものは、着物をぬげば誰でもなれるのだから、創造せられたもの、衣裳とよぶことのできない原始風俗であるけれども、アロハは衣裳であるぞ。アロハは風をきり、銀座の風も、新宿の風も、奥州蛇谷村の風も、みんなアロハにきりまくられた。女の影のうすいこと。パーマネントでこれ対抗につとめても、とても敵ではなかったようだ。
 美神の登場で、こんな唐突なのは歴史に類がなかったかも知れない。概して都心の流行というものは、モガモボにせよ、いくらか当代の最高芸術に心得もあり、寄らば逃げるぞという人種のものであったが、戦後の都心はクリカラモンモンの熱血児に占領されて、日本中、アロハとパンパンに完全にいかれてしまった。
 フォーブなどというのはアトリエの小細工だが、アロハは熱血躍動する美の化身そのものであるぞ。芸術家の創造能力などゝいうものは箱庭のようなものだ、と私がシミジミ嘆いたのは当然だ。巷談師安吾の想像力がタカの知れたものであるのは当然らしいが、ダ・ヴィンチにしたところで、けっしてアロハほど唐突なイマジネーションをめぐらしてはいないのである。原子バクダンでもチャンと筋は通っている。アロハの出現に至っては筋はない。アトリエや研究室のハゲ頭どもは、一撃のもとに脳天をやられ、毛脛をやられ、みんな、おそれ入りましたと言った。
 アロハは突如として消え去せてしまったが、世を忍び、地下へくぐったにすぎない。美神アロハは生きている。否、生きているどころか、指令を発し、現に美のもろもろはアロハの大きな手におさえられているのである。惑星アロハをめぐる小遊星のタップダンス程度なのが今の世の流行であり芸術だ。それぐらいアロハは大きい。
 フジタが河童アタマでモンマルトルの奇襲作戦に成功をおさめても、モンマルトルが河童アタマになったわけではないのである。わずかに東京の大辻司郎の頭がそうなったにすぎないほど感化力は弱小であった。フジタほどの芸術家が日夜に想をねり、たくみにたくんで編みだした創作も、ただ彼自身のポートレートをかざるだけのものにすぎない。だから、芸術家の如きはダメだ。彼らの傑作もたかが小遊星である。流星ですらない。…

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