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桂馬の幻想
けいまのげんそう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 15」 筑摩書房
1999(平成11)年10月20日
初出「小説新潮 第八巻第一六号」1954(昭和29)年12月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-11-20 / 2014-09-18
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 木戸六段が中座したのは午後三時十一分であった。公式の対局だから記録係がタイムを記入している。津雲八段の指したあと、自分の手番になった瞬間に木戸は黙ってスッと立って部屋をでたのである。
 対局者の心理は案外共通しているらしく、パチリと自分でコマをおいて、失礼、と便所へ立つのはよく見かける風景であるが、相手がコマをおいた瞬間に黙ってプイと立って出て行くというのはあまり見かけないようだ。コマをおいた相手は小バカにされたような気がしないでもない。事実、津雲はいくらか気をわるくしたのであった。ところが木戸は立ったまま一時間すぎても戻らなかった。戻らないわけだ。木戸は用便をすましたあと、ふと庭ゲタをつッかけて宿をでてしまったのである。新聞社の係員も観戦の人々もそれに気づいたものがなかった。やがて旅館ではちょッとした騒ぎになったが、木戸は別段策したわけでもなく、ふとその気になって散歩にでただけのことであった。
 その日は対局の二日目で、まさに終盤にさしかかって激戦の火蓋がきられたところであった。まだ形勢はどちらのものとも判じがたいが、まさに息づまろうという瞬間だから、木戸はちょッと息をぬきたくなったのである。すこしだけ歩いてみたい気持であったが、宿をでて坂を降りると山陰をぬう静かな道がある。そこを歩いているうちに渓流の岸へでたのである。と、道の下の岩の上で魚釣りをしている野村の姿をみとめた。野村は文士でこの対局の観戦記者であった。対局をよそに魚釣りの観戦記者もないものだから、
「なんだ。野村さんじゃありませんか。ノンキなものだなア」
 と道の上から声をかけて降りて行くと、野村は苦笑して、
「しまッた! 対局はすんだのかい」
「いいえ」
「じゃア、どうしたわけだ」
「ちょッと息ぬきです」
 野村はあきれて木戸をみつめた。木戸はやっと二十の若者だ。C級の六段である。天才的な若者ではあるが、公式戦へでられるようになって三年足らず、駈けだしである。新聞社の勝ちぬき戦で強豪をなぎ倒して、名人候補と声の高い強豪津雲と顔があった。天才といえば相手も天才、クラスのちがう大強豪とはじめて公式に顔があって若い木戸の勝つはずもあるまいが、津雲が苦戦すればお慰みと、新聞社では特にこの一局をとりあげて好局ができれば記事にするつもりであった。
 紺絣の木戸は温泉旅館へ招かれて公式に手合するさえはじめてだ。そうでなくとも対局中に中座して散歩にでるなぞというのはあまり例のないことである。それに封建色の強いこの社会では大先輩を待たせておいて散歩は礼を失するも甚だしいというような考え方も濃厚だ。また対局中は神経が異常にたかぶるからノンビリ息ぬきの散歩なぞと余裕のある気持にはなれないのが普通でもある。それで野村は呆れたのである。
「本当に対局中なのかい?」
「ええ。夜中ぢかくまでかかりそうです」
「そうだろ…

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