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記憶のいたづら
きおくのいたずら
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集16」 岩波書店
1991(平成3)年9月9日
初出「スタイル読物版 第二巻第四号」1950(昭和25)年4月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-25 / 2014-09-16
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 妻の順子が急に、
「どうも、怪しいわ。こんなに痛いはずないんですもの」
と、顔をしかめながら言ふのをきいて、鈴村博志は、今更のやうにギクリとした。
「だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ」
「あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい」
 さう言つたまゝ、妻の順子は、そこへ突つ伏してしまつた。
 鈴村博志は途方にくれた。今すぐ病院へ電話をかけて、それで間に合ふかどうか? 医者が駈けつけて来るとしても、それまで自分ひとりでどうすればいゝのか?
「弱つたな。とにかく、しつかりしろよ。万一の用心に、そこの産婆にでも来てもらはう。病院へは、むろん連絡はするがね」
 彼は、妻のために夜具を敷き、隣家の細君にちよつと声をかけておいて、ドテラ姿のまま家を飛びだした。
 思へば迂闊な話である。結婚してから既に十五年、これが最初の経験ではなく、妻の順子は、三度身重になり、そのうち二度は流産といふあつけない結果であつただけに、こん度は大事をとつて、毎月医者に見せ、いよいよとなつたら入院する手筈をきめてゐたのである。
 どちらかといふと、二人とも晩婚で、彼は三十二で、はじめて、家庭と名のつくものをもち、妻の順子は、二十六で、平凡な人生の伴侶を見つけたのである。事実、二人の間には、なにひとつロマンチックな思ひ出といふやうなものはなく、そのかはり、また、これといつて期待を裏切られたといふ悔いもなかつた。
 彼は、B大学の専門部を出るとすぐ現在の製紙会社へはいり、勤続二十五年の功でやつと課長の椅子にすわると、彼女は、いつさいボーナスに手をつけない主義で、ひたすら老後の安泰を心掛けた。彼は、立身出世に見きりをつけ、たゞ周囲との円滑な交渉、妻と二人きりの生活の平和を念願として、人生の降り坂を悠々と歩いてゐた。そして、彼のこの心境をうつして、申し分なく内助の役を果してゐる妻の順子は、美貌とはいへないが、決して、ひからびた存在ではなく、明けて四十歳の今日、気分次第では、ひとり台所で「野ばらの歌」を口吟む若々しさをのこしてゐる。
 焼け残つた東京郊外の、空ツ風の吹きまくる道を、鈴村博志は、無我夢中で、電車の停留所目がけて、呼吸をきらしながら、前のめりに歩いてゐる。たしか、このへんで、産婆の看板を見かけたはずだが、と、あたりへ気をくばる。どうして、そんなことを覚えてゐるかといへば、それは、ちよつとしたひつかかりがあるからで、以前、この道を通つた時、ふと目についた、よくある例の四角い白ペンキ塗りの立て棒の看板に、「産婆大野登志」と書いてある、その名前が、彼の遠い記憶をおぼろげに呼びさましたからである。
 オホノトシ、オホノトシ、と、口の中で繰り返してみて、彼は、その名前の響きといつしよに…

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