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髪の毛と花びら
かみのけとはなびら
作品ID43864
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集18」 岩波書店
1992(平成4)年3月9日
初出「オール読物 第七巻第四号」1952(昭和27)年4月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-12-13 / 2014-09-16
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「もつと早く読んでいゝよ」
 机の上におつかぶさるやうな姿勢で、夫は点字機を叩いてゐた。
 美津子は、コタツにあたりながら、文庫版のメリメの短篇「マテオ・ファルコオネ」を、区切り区切り、調子をつけて読みあげてゐる。
 結婚このかた、美津子は、かうして、夫が打ちこんでゐる仕事を助けて来た。夫の念願は、世の失明者のために点字図書館を作ることであつた。中学を終へて、高等学校の受験を前にひかへ、彼は、突然、眼をわづらひ、医療の効なく、まつたく視力を失つてしまつたのである。
 一時は、絶望のあまり、自暴自棄に陥りかけたが、戦争の勃発が、彼に新しい生き方を発見させた。友人の多くは召集され、生死の巷に身を投げ出して行くのをみて、彼は、考へた。兵役免除といふ特権に甘えてはならないと。そこで、盲人が身につけ得る技術をひと通り習ひおぼえる決心をした。琴を除いて、彼は、盲学校の全課程をむさぼるやうに修めた。
 六年の年月がたつた。ハリ、マッサージ、揉療治、それだけは国家試験をパスしたが、彼は、すぐにそれで生活したいとは思はなかつた。幸ひ、両親はまだぴんぴんしてゐた。革具と靴の店を出してゐる父は、不憫な息子のために、食ふ心配だけはさせないつもりでゐたから、彼は比較的のんきに、自分の好きな道を撰ぶことができた。
 彼が思ひついたのは、同じ境遇にある人々のために、点字の書物をたくさん作ることであつた。ことに、彼は、面白い小説や読み物を失明者がひとりで読める幸福を想ひ描いて、誰かゞそれを与へなければならぬと思つた。
「今日はこれくらゐにしとかう。メリメがすんだら、久生十蘭をやらう。いつか読んでもらつた、そら、チベットへ行く話さ、あれを是非やらう」
「まだ、おなかおすきにならない?」
「すいた。いまなん時だらう?」
「五時半です。夕食の支度はもうできてるのよ。ちよつと温めさへしたらいゝんだから……」
「カレーはうんと辛くしてくれよ」
「あら、もうご存じなの?」
 妻の美津子は、夫の嗅覚と聴覚にはいつも驚嘆するばかりである。ときどき、それを試してみたくなるくらゐである。あるとき、勝手で洗ひものをしながら、奥の座敷へは聴えまいと思ふほどの声で、わざと、相手に話しかけるやうな調子で、お喋りをしてみた。
 ――うちぢや、そんなもの、いらないのよ。またこのつぎにしてちやうだい。どうせ買はないもの、見たつてしやうがないわ。ほんとに、ムダな時間つぶしだわ。えゝ、せつかくだけど……はい、さよなら……戸をしつかり締めてつてちやうだい。風が強いから……。
 あとで、夫のそばへ素知らぬ顔で茶を汲んでいくと、
「いま、なんだつて、あんな独り芝居をしてたんだい?」
 と、鮮やかに突つこまれ、彼女は、つい、吹きだしてしまつた。
 彼女は、たしかに、不幸ではなかつた。非常に幸福だと思へる瞬間さへあつた。それゆゑ、…

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