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『桜の園』の思ひ出と印象
『さくらのその』のおもひでといんしょう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集19」 岩波書店
1989(平成元)年12月8日
初出「演劇新潮 第一年第六号」1924(大正13)年6月1日
入力者tatsuki
校正者Juki
公開 / 更新2006-04-06 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ○一九二二年の暮れ、モスコオ芸術座の一行が初めて巴里を訪れ、シャン・ゼリゼエ劇場の大舞台で、その華々しい上演目録の中から、特に純露西亜の作品数篇を選んで、旅興行の蓋をあけた。
 ○『桜の園』はその一つであつた。
 ○僕は露西亜語がわからない。そこで、仏訳の『桜の園』を三度繰り返して読んだ。どの人物が、どこで、どんな台詞をいふといふことまでおほかた空で覚えた。殊に、全篇を流れる情調と場面場面の雰囲気、あの匂やかな機智の閃きと、心理的詩味の波動とを、自分のイメージとして、しつかり頭の中に描いて行つた。
 ○勿論、それぞれの人物は完全な一個の存在として一人一人僕の心の中に活きてゐた。
 ○われわれ日本人は、仏蘭西人の多くよりも露西亜人を識つてゐる――露西亜人の生活、その感情、わけてもその「夢」を識つてゐると思ふがどうだらう。
 ○『桜の園』の幕があいた。
 ○スタニスラフスキイは、開演の前夜、一行歓迎会の席上で、自由劇場の創始者老アントワアヌ及びヴィユウ・コロンビエ座の首脳コポオの挨拶に答へて、「わたくし共が、露西亜語で演じる劇は、露西亜語のおわかりにならない方にも七分通りはおわかりになるだらうと思ひます。それは、わたくし共は常々露西亜語以外に、万国共通の言語によつて劇を演じることを心掛けてゐるからであります」と云つた。
 ○少し言ひ過ぎはしないかと、僕は思つた。今でもさう思つてゐる。
 ○が、『桜の園』は――準備を勘定に入れて――七分通りまでわかつたと断言し得る。なぜなら「見た芝居」が「読んだ芝居」のイメージをぶち毀さないことは甚だ稀れである。
 ○それどころか、僕は、驚嘆すべきラアネフスカヤを見た。その裾さばきに、そのハンケチのひろげ方に、その珈琲の飲み方に、殊にその耳の傾け方と、肩の捻ぢ向け方に、彼女の一切を語らせてゐるところのラアネフスカヤを見た。――クニッペル・チェーホヴァ夫人の涙はそのまゝ凋落と離別の詩だ。
 ○ガアエフは感傷的な男に違ひない。然し、そのセンチメンタリズムは決して外にまで燃え上らないセンチメンタリズムである。その感激は、必ずしも空虚ではないが、屡々機械的である。じめじめはしてゐない。朗らかである。然し、玩具の笛の如く調子外れである。調子外れであるが、わざとらしくない。寧ろ頗る自然である。スタニスラフスキイのおほまかな、素直な、どつしりした芸風が、ぴつたり、そこに嵌つてゐた。
 ○ロパアヒンは善良な「俗物」である。が、そのことは彼が一つのプリンシプルを有つてゐることを妨げない、――そのプリンシプルが彼を聡明にしてゐる。聡明にはしても、「インテリゲンツィア」にはしない。そこに此の人物の面白さがある。医者にも、学者にも、弁護士にも「俗物」がある。殊に「大学出の実業家」と称する俗物もある。さう云ふ俗物になつてはいけない。それにはレオニドフのロ…

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