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島国的僻見
しまぐにてきへきけん
作品ID44355
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「文芸春秋 第三年第六号」1925(大正14)年6月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-10-21 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 日本がだんだん欧米化しつゝあるといふ見方は、或る意味で肯首できるけれども、それを悦ぶものも、それを嘆くものも、もう一段高い処から見て、総ての民族が世界化しつゝあるのだと思へば、人類の超国境的進化を認めないものゝ外は、さまで、日本のみが特殊な境遇に置かれてあると信じる必要はあるまい。
 事実、現代の日本人は「多少とも」英吉利人であり、独逸人であり、露西亜人であり、仏蘭西人であり、亜米利加人であるのだ。然し、それがために、だんだん日本人でなくなると思つてはいけない。
 現に、「多少とも」東洋人に、乃至は日本人になりつゝある欧米人もあるやうに見受けられる。
 各国の文学が、その特色よりも、共通な或る標準によつて批判され、翫味されようとする時代が来てゐる。
 然しながら、まだ、それぞれの国は、その文学に、他国人の味ひ得ぬ味を保有してゐるやうである。殊に、欧米と東洋、殊に日本との間には、文学的審美観念の隔りが可なり大きい。それでも、われわれ日本人は、五十年前から較べれば、「多少とも」欧米の文学を、その国の人の如く味ひ得るやうになつてゐる。それは、前に述べたやうに、われわれ日本人が、多少とも欧米化してゐるからであらう。
 近藤経一氏であつたか、ラ・デユウゼの演じた「幽霊」を観て感想を述べられてゐる中に、外国の作品はどうしてもその国の人と同じやうに味へる筈はないのだから、われわれ日本人は、日本人としての解り方でそれを味へばいゝ。外国劇の演出なども、強ひて、外国人の演出法に範を取る必要はない。といふやうな意味の事を述べてをられた。之に対し、正宗白鳥氏も賛同の意を表してをられる。
 僕は、この説に全然同感はしながら、自分の経験から、一応、之に註釈をつけて置きたく思つた。余計なことだつたかも知れない。然し、丁度日本現代劇に対する不満が、此の機会に、具体的に説明できると思つたので、「横槍を一本」入れて見たのである。
 現代日本文学は外国文学の影響を非常に受けてゐるが、わけても戯曲は、日本古来の伝統から離れて、欧米の近代劇とその流れを倶にしようとさへしてゐる有様であるが、それにしては、日本現代劇は、まだまだ西洋劇に学ぶべきところが多いやうに思ふ。外国劇の研究から出発して、自ら劇作乃至劇評に筆を染めようとするほどのものは、従来、「日本人には味はへない味」と思はれてゐるやうな「味」までも充分に味はつて行く必要がある。それでないと、遂に、戯曲の本質に触れない、云はゞ形骸のみの模倣に陥り易い。外国の優れた戯曲が、その「劇的文体」に於て、その「言葉の妙味」に於て、如何に本質的価値を発揮してゐるか、その点にもつと理解があつて欲しい。「日本人には味はへない味」だなどと頭から棄てゝかゝるのはよくない。と、まあざつとこんなことを云つたつもりである。
 正宗白鳥氏は、すると、先日、日々紙上で、大に皮…

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