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新劇運動の一考察
しんげきうんどうのいちこうさつ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「新小説 第三十年第七号」1925(大正14)年7月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-10-01 / 2014-09-18
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 僕は嘗て、今日われわれが「新劇運動」と称へるべきものは、明かに所謂近代劇運動なるものと区別して考へなければならないことを述べた。
 現代の日本に於て、この二つが、殆ど同様の意味に用ひられてをり、外国劇の影響と刺激より出発した凡ゆる演劇が等しく近代劇と呼ばれ、新劇と呼ばれてゐるところに、僕は、現代日本劇の行詰まつた結果を発見する。
 問題は名称の如何に在るのではない。西洋に於て必然に歴史的意義を掲げて生れ来つた近代劇が、偶々、日本に輸入され、その啓示によつて、日本伝来の演劇に一つの革新運動が齎らされた事実を顧みても、その革新によつて生れた一つの演劇様式が、在来の伝統劇に対して、近代劇の名を附せられることは、その根本に於て著しい誤りを含んでゐる。よしこれに近代劇の名を許すにしても、西洋の古典劇に対して、日本近代劇は如何なる立場にあるのか、肯定的にせよ、否定的にもせよ、この立場が明かでない以上、日本近代劇は断じて西洋の近代劇とその歩調を倶にすることは不可能である。
 ここで欧米に於ける近代劇運動の歴史を詳説する暇はないが、われわれが、真にその名に応はしき近代劇を有ち得るためには、この意味に於て、暫く日本古来の演劇的伝統より離れ、一応欧米の古典劇へ眼を注ぐべきである。そして、時代と共に推移した一面を見極めると同時に、時代を通じて成長した一面を察知すべきである。そこに、われわれが求める真の新しき演劇様式を発見するであらう。その上で、更に、日本在来の演劇に公平な批判を下すがよい。そしてそこからは新しくはなくとも、われわれに最も親しい美的伝統を求めるがいい。
 われわれが自称する「近代劇」は、実際、あまりに歴史的必然性を欠いてゐる。これがつまり文学的生命の稀薄な所以である。
 西洋の近代劇は当然生るべくして生れた。日本の近代劇は偶然、外国劇の影響から生れた。西洋の近代劇は、シェイクスピイヤ、モリエエル、ラシイヌ、シルレルによつて耕された土壌の上に芽を吹いた。日本の近代劇は、云はばその芽を、近松、南北、黙阿弥の耕した土の上に移し植ゑたのである。油断をすれば枯れるにきまつてゐる。なぜなら、近松、南北、黙阿弥は、イプセン、チエホフ、さてはマアテルランクなどを植ゑるやうに土を耕してはゐないからである。枯れないまでも花に香りがないだらう。実に汁が少いだらう。これはどうしたらいいか。シェイクスピイヤ、モリエエル、シルレルの耕した土を持つて来るか、または、その土の代りになるやうな肥料を与へるのである。比喩が変になるが、その土といふのは西洋劇の伝統である。肥料といふのは、近代生活の研究である。
 イプセンの思想を論じ、チエホフの手法を研め、マアテルランクの情調を云々するだけが、近代劇の研究だと思つたら大間違ひである。殊に、それだけで西洋劇がわかつたと思つたら大間違ひである。
 日本の近…

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