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俳優教育について
はいゆうきょういくについて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集20」 岩波書店
1990(平成2)年3月8日
初出「演劇新潮 第一巻第一号」1926(大正15)年4月1日
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-03-28 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 あらゆる芸術の分野に於て、誰かが、自分こそは独自の道を歩いてゐる――何人からも、教へられるところはない――模倣は生来自分の性に合はない――と広言したならば、その人間はたしかに、自分の世界をせばめてゐる。その意気や壮なりと雖も、甚だ「子供臭い」と云はなければならない。
 現代の日本劇作家中、誰が「人の真似」をせずして、戯曲に筆を染め得たらう。真似といふ言葉を使ふのは、必ずしも嫌やがらせではない。誰の真似をしたと云はれれば一寸困るかもしれない。それだからと云つて、それが誰の真似もしないといふ証拠にはならない。実際、われわれは、色々の人の真似をしてゐるのである。殊に、われわれは西洋の作家の真似をしてゐるのである。或は西洋の作家の真似をした日本作家の真似をしてゐるのである。初めは、猿真似にすぎなかつた。近頃は、だんだん上手になつて来た。真似をしてゐるやうには見えなくなつて来た。しかし、どこかまだ「もの」になつてゐない。それは、真似られるところだけ真似て、真似られないところが「どうもしてない」からである。すつかり真似たつもりでゐても、「それはさういふ風に真似るのではない」といふところがまだあるのである。
 それは何故かと云ふと、今まで度々云つたことであるが、お手本がよく解つてゐないのである。勿論、程度の差はあるが肝腎な処から先が、よく呑込めないでゐるのである。西洋の作品を――それが戯曲であるがために――読みこなせないでゐる。訳しこなせないでゐる。その、好い加減に解つた頭で、時によると、とんでもない解り方をした頭で戯曲を書く。それが、お手本と違はない程の出来栄えであると信じ得たにしても、それは、お手本まではまだまだといふ代物、時によると、お手本とは似てもつかぬ代物である訳なのである。
 それでもまだ、戯曲の創作には、まがりなりにもお手本がある。多少とも「教へられるところ」がある。然るに、俳優の演技に至つては、仮令、外国に渡つて外国の名優が演じる舞台を見、なるほど、ああやればいいのかと思つたところで、それはかの劇作家が、外国の戯曲を読んで「わかる」ほどにもわからないのが普通である。若しそれが、ある程度までわかるとしても、今度はそれを真似ることが、戯曲の創作に於けるより困難であらう。何となれば、その時はもうお手本が眼の前にないから。
 これがつまり、わが国に於ける新劇俳優の技芸が、いつまでも素人の域から脱しない第一の理由であらう。
 わが国の新劇俳優が、いつまでも素人であるといふ事実は、即ち新劇なるものに対する世間の軽侮を生み、新劇は退屈なもの、巫山戯半分なもの、ぎごちないもの、金を出して見に行くのは馬鹿らしいものといふことになり、興行師も一方旧劇といふものがある以上、わざわざこの不景気な新劇に手を染めようとせず、俳優志願者も、少し素質のあるものは、映画などに走り、従つて…

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