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演劇の大衆性
えんげきのたいしゅうせい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「都新聞」1933(昭和8)年5月17、18、19日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-20 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 文学に於ける大衆性といふ問題が云々される今日、私は私で、一つの意見をもつてゐないでもないが、直接その問題に対する興味からでなく、いはば現代に於けるわが演劇壇の危機に直面して、その道の人達が誰でも考へてゐる空漠とした打開策の上に、私一個の理論を打ち樹ててみようと思ふのである。
 そこで先づ、「大衆性」といふ言葉の意味と、その価値について云つてみれば、この新らしい熟語は、既に両極端の相反する概念を生じてゐることがわかる。即ち政治的には、大衆万能時代のことであるから、十分、尊重の精神が含まれ、知識的には、表面は兎も角、一般教養の低さを示す意味で、まだまだ、幾分の軽蔑がまじつてゐる。ところで、さういふ大衆といふものの本体が、それを口にする人々の立場によつて、必ずしも一定しないといふ事実を見落してはならないので、例へば、社会的支配者の地位にあるものが、文化的にみれば、所謂大衆の末席に連つてゐるにすぎないことがある。
 最近、フェレロといふ人が書いてゐる通り、一民族の支配者等は、「権力」を護ると同時に「影響」を与へるといふことが通例であるのに、今日の亜米利加は、支配者が逆に被支配者の影響を受けなければならぬ状態で、これが、現代亜米利加文明の弱点である。この事実は日本にもそのまま当嵌るので、教へるつもりの相手から逆に、教へられなければならぬといふやうな現象が、今日、到るところ、ざらに見られるのである。
 演劇にしてもさうである。当事者の方では、近頃の見物は芝居がわからぬから、ちやんとしたものを観せても客が来ないのだと思つてゐると、豈計らんや、劇場に行かない人々のうちに、却つて、当事者よりも芝居のわかる人が沢山ゐて、そんなものをやつてゐるから見に行かないのだと、蔭で嗤つてゐるのである。
 結局、大衆といふものは得体の知れぬものとして、さて、芸術の方面からいへば、大衆とは、結局、これを鑑賞する相手全体を指す以外に意味はなく、若し仮に、芸術の鑑賞能力といふ点で、その低きものを意味するのであつたら、これは、大衆でなく、俗衆であり、極端にいへば、芸術とは無縁の衆生である。
 強ひて、芸術の「大衆性」なる言葉を翻訳すれば、これは、正しく、古来より使ひ慣らされた「普遍性」といふ一語に尽きるので、これならば、何も議論をする余地はなくなると思ふ。
「大衆性」といふ言葉に、「広さ」以外何か、「低さ」の感じをもたせることが、今日、演劇の前途を暗くしてゐるのである。その最も著るしい例は、「低く」さへあれば、「狭く」てもいいといふ認識不足が生れ、「狭い」ために多数の興味を惹かないことに気づかず、これでもまだ「高すぎる」のだと早合点をしてゐる向きがないでもない。
 現在の劇場で、見物が黙つてゐても見に来るといふのは、恐らく、一二の例外を除いては、全く考へられないことであらう。その原因は、何よりも、…

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