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翻訳劇と翻案劇
ほんやくげきとほんあんげき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「劇作 第三巻第七号」1934(昭和9)年7月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-10 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 翻訳劇といふ名称を私は好まぬ。翻訳は方便にすぎぬ。外国劇或は西洋劇で沢山だ。翻訳といふ言葉に妙に力を入れるのは、文化の幼稚さを証拠立てるやうなものだ。

 翻訳劇といふものが、しかし、日本では新劇の一種目になつた観がある。演劇として最も不自然な演劇を指す。
 先づ第一に、白に生命がない。第二に、日本人中、最も国際化されてゐない俳優によつて扮せられる西洋人は、仮装行列そのままであり、殊に、科と表情による模倣は観てゐて苦痛である。
 が、しかし、西洋劇の紹介は、誰がなんと云はうと、必要かつ有益である。演出者の演出欲といふやうな問題は別にして日本の観衆は、それによつて、演劇の新しい領域を発見し得るわけである。そして、同時に俳優は、わが国の演劇的伝統からはなれて、近代演劇の心理的分野をその演技の基調として学び得るのである。
 ところが、今日までの所謂「翻訳劇」は、私が常に繰り返す如く、西洋劇の本質的生命を忘れて、徒らに外貌の模写をこれ事とし、日本現代劇の基礎たる使命を果さずに終つたのである。
 私は、十年前、築地小劇場の旗揚興行に際して、最も同情ある観客の一人として、忌憚のない批評を試みたが、その際も、特に、翻訳劇上演の意義と、その方法に関する私見を述べた記憶がある。一言で云へば、外国劇の上演には賛成だが、その方法を誤つては悔を後に遺すであらうといふ意味であつた。
 私は、その頃から、翻訳劇のみを演らされてゐる俳優が、将来、どうなるであらうかを心配し、女形の問題などと引合せて、いろいろ考へてゐたのであるが、女形には、女形の存在理由と、根本的な修業方法があるに拘はらず、西洋人に扮する役にはその場限りの誤魔化しがあるばかりである。女形は、先づ女になることが芸であるが、西洋人になることは、「近代の演劇」に於て、芸とはいへないのである。少くとも、それは、演技の全般からいへば、第二義第三義的のものである。西洋人になるために、感情の表白が曖昧になり、俳優の個性が生かされないとなると、舞台の魅力は忽ち稀薄になることはわかりきつてゐる。
 この問題を先づ解決しなければ、翻訳劇ぐらゐ演出者以外を楽しませない芝居はないだらうと思ふ。
 そこで、私は、これも度々人には話したことで為るが、外国に於ける「翻訳劇」の上演方法を参考にするといいと思ふのである。
 特に異国情調を売物にする芝居を除いては、外国人に扮するために、特に、その努力をする俳優を見たことがない。白人間の相違は知れたものだと云ふかもしれぬが、それが抑も認識不足で、例へば英国人と仏蘭西人との相違は、一目見ればわかる。が、「真面目な芝居」に於ては、演劇の精神を没却することを惧れ、俳優は、自己の全能力を、人物の個人的表現に傾倒し、恰も、それが「自国の劇」であるかの如き演じ振りをする。それ故、見物の方でも、舞台は外国でも、登場人物は…

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