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演劇本質論の整理
えんげきほんしつろんのせいり
作品ID44510
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「新潮 第三十一年第九号」1934(昭和9)年9月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-10-20 / 2014-09-21
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一、弁明

 本誌(新潮)八月号に発表された岩田豊雄氏の文章「演劇本質論の検討」を読んで、僕はいろいろのことを感じた。僕自身に関することが、寧ろ厚意的に書かれてゐるものを、穏健妥当などと云つたらそれこそ可笑しなことになるが、率直に云つて、僕は、演劇的同志たる岩田氏のこの一文に対し、敢て弁明を加へたい慾望を禁じ得ないのである。
 それは第一に、明確に名を指してはゐないが、僕の十年来反覆主張する「演劇論」的傾向を指して、同氏自ら、「謂ふところの言葉派」と称し、これに対立する一派を、「動作派」と呼んでゐることだ。そして、その「言葉派」たるや、演劇に於ける「言葉の絶対性」を信じ、動作の劣性を主張し、舞台に於ける一切のスペクタクル的効果を拒否するものと断じてゐる。少くとも僕は、そんな無謀な言説を弄した覚えはない。
 なほまた、同氏は、その文章中、何人かが、ヴィユウ・コロンビエ座のジャック・コポオを、所謂、文学派、言葉派、小劇場派の驍将の如く伝へ、彼が動作に冷淡だつたとか、舞台の視覚的側面を無視したとかいふ「嗤ふべき推測」を下した如く推測してゐることだ。僕以外にそんなことをしたものがあれば別だが、これだけでは、所謂「言葉派」の主唱者が、それをやつたかの如く受け取られてもしかたがない。
 ここで、はつきり云つておくが、僕は、自分の「演劇論」が、さういふ風に、誤つて理解されてゐたら、非常に残念に思ふ。僕は、未だ嘗て、「演劇の本質は言葉に在り」と云つた覚えもなく、「演劇の視覚的意義」を否認した覚えもない。
 なるほど、僕は、十年以前に、戯曲論として、「対話させる術」の重要性――しかも、これは作家の修業課程として小学校であることを明記した――を説き、俳優論としては、最も基礎的な「物言ふ術」の修得を絶対必要とすることを唱へたが、その頃から、世間の一部は、僕を、「言葉至上主義者」と見做すに至り、「言葉、言葉、言葉」といふ標題の本を出すに至つて、いよいよ、動かすべからざる証拠を示したやうになつたが、この標題の意味は、焉ぞ知らん、ハムレットの懐疑的な白なのである。
 余談はおいて、僕の主張する演劇に於ける「言葉の重要性」とは、本質論的に、「動作」の劣性をひき出し得るものでなく、日本現代の演劇と、その革新運動の諸相を通じて、最も、根本的にして、しかも全然等閑に附せられてゐる側面を、単に戯曲作家の側からのみでなく、俳優、並びに演出家の立場からも、強調し、その研究と訓練に向つて、新劇の努力を集中せしめるための一つの「提議」なのである。
 演劇の本質を論ずるに当り、「言葉」が主か「動作」が主かといふ問題は、岩田氏の云ふ如く、「果てしなき論議」だとは、僕は思はぬ。「動作」が主なる演劇もあり、「言葉」が主なる演劇もあり得ると考へるのが普通であらう。また、「言葉」が心理的で、「動作」が感覚…

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