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わが演劇文化の水準
わがえんげきぶんかのすいじゅん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集22」 岩波書店
1990(平成2)年10月8日
初出「帝国大学新聞」1935(昭和10)年5月6、13日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-11-16 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     アカデミイなき悲哀

 現代日本の各種文化部門を通じて、最も混沌たる状態を示してゐるのは、人々によつて多少見るところも違ふであらうが、恐らく、明治維新の一転機にも拘らず、かの封建的伝統を最も執拗に、かつ濃厚に継承し来たつて、これに代るべき新時代の要求を未だ明確に反映し得ない、ある若干の部門に限られてゐるやうである。
 これは、要するに、理論と実践の二途について――例へば政治の如き――一様の批判は加へられぬものもあるに相違ないが、少くとも精神文化の方面に於て近代国家の面目としても、甚だ外聞を憚るやうな社会的現象が、何等指導階級の注意をすら惹かずに存在し続けてゐることを、識者は既に幾度も叫んでゐるのである。
 私は固よりさういふ立場から、権威ある言説をなす資格などありやうはないのであるが、需められるままに、自分の専門たる演劇の領域に於いて、現在、わが国の劇場文化が、如何に低劣卑俗を極め、これに反撥する運動の精神が、遂に今日まで有力な民衆の支持を受け得ないでゐる事実について語らうと思ふのである。
 要するにかういふ結果は、単純な原因に基くものではないことは知れてゐるが、主として日本演劇の伝統が、恐らく最も「舶来的」感化を受けるのに困難な条件を具備してゐるためであり、同時にこれに対して新国家建設の衝に当つた当時の「役人」が、偶々西洋音楽のアカデミイ制度を移入するに際し、どうしたわけか、これに附属する「演劇教育」に関する部分を除外したことに重大な手落があつたのではないかと思ふ。
 勿論、アカデミイはアカデミイだけの役割を果せばよいのである。言ひ換へれば、国家の文化的基礎を築き、その水準を常にある程度まで高めて行くといふ機能は、アカデミズム本来の使命である。あらゆる文化の先駆的傾向は、その水準の上にはじめて活溌な動きを見せるものであることは、例を何れの部門に取つても云へることである。
 現代の日本演劇が、歌舞伎とその伝統の派生たる新派劇を主流とし、劇場文化の全面的水準をここにおかねばならぬ状態は、西洋演劇の技術的伝統が、アカデミックな階梯を経てわが国の劇壇に摂取されなかつたことに基因し、従つて、演劇人たるの夢想は、遂に、文明開化期の青年的野心と相容れざるものがあり、劇場は、果して商業主義の一途を撰ぶ外なかつたのではないか。
 演劇改良会のメンバアは、有為な頭脳にも拘らず、近代演劇の芸術的進化について盲目であり、俳優の教養については更に考慮を払つた形跡がない。
 坪内逍遥は、演劇に関する限り一個の傑れたアマチュアであつて、一世を指導する創造的着眼を欠いてゐた。かくて、島村抱月も小山内薫も、終生アカデミイなきアンデパンダン的存在として、空虚な努力を「新劇」開拓の上に捧げたのであつた。
 一方、近代企業の列に伍した劇場経営は、国家の無関心に乗じ、民衆の無批判を利用し…

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