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歌舞伎劇の将来
かぶきげきのしょうらい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「悲劇喜劇 第七号」1929(昭和4)年4月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-12-10 / 2016-05-12
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 歌舞伎劇が、今日、我が国劇の主流を形造つてゐることは、如何なる点から見ても不合理であり、不自然である。しかし、その特異なスペクタクル的興味と、アカデミックな文学的平俗さと、世襲俳優の職業的素質とによつて、資本家の寛大な庇護を受け、民衆の伝統的嗜好に投じつつあることは、誰の罪でもないのである。
 私は、決して、歌舞伎劇に代るものが、所謂「新劇」であるとは思はない。それは、やはり、新鮮なスペクタクルであり、刺激的で、同時に解り易き物語であり、美しく、勇しく、意気で、聡明な俳優によつて演ぜられるところの、「現代通俗劇」に外ならぬと思つてゐる。
 ある時代の「新派」は、たしかに、この要素を備へてゐたやうに思はれる。しかし、かれ「新派」は、「現代」の何者たるかを解しなかつた。その証拠に、今日の「新派」は「現代」そのものの如きアメリカニズムにさへ没交渉ではないか!
 これは戯談だが、われわれ、演劇研究者として考へなければならぬことは、わが国に於ける新劇運動なるものが、常に歌舞伎劇に対抗する気勢を示しながら、実は歌舞伎の勢力を助長することにしか役立たない結果を齎したといふ一事である。
 その理由は、第叫に、外国の高級な作品並に、わが国の新しい文学的戯曲が、歌舞伎俳優によつて演ぜられ、当時、相当の芸術的効果を挙げたのに反し、新劇俳優の手にかかつた場合、多くは見るに堪へない事実を暴露したため、頓に歌舞伎俳優の信用を高め、引いて、「新劇」ぐらゐ歌舞伎俳優にでもやれるが、ただ、やつても客が来ないし、また、それが本職でもないから、やつぱり歌舞伎だけやつてゐれば文句はないといふ口実を成立せしめたのである。
 ところで、今から考へてみると、歌舞伎俳優の演じた「新劇」なるものは、日本作家のある少数の作品を除けば、別に大した出来でもなく、寧ろ、滑稽な猿真似にすぎないのであつて、その点、あんなことをいつまでもやつてゐない方が結構なのである。
 私の考へでは、一時、歌舞伎劇凋落のきざしが見えた頃、外国のブウルヴァアル作家に匹敵する優秀な通俗劇作家が現はれて、どしどし面白い脚本を書いてゐたなら、歌舞伎俳優のあるもの、又は、新派の連中が競つてこれを舞台にかけ、今頃はもう、立派に「現代通俗劇」が、歌舞伎劇に代つて巾をきかしてゐただらうと思ふ。そして、この「現代通俗劇」を向うに廻して、先駆的な、高蹈的な、純芸術的な立場から、ほんたうの「新劇運動」が起り得るのである。築地小劇場なども、さういふ場合にこそ、あの仕事に一層の意義が生じる筈である。

 今日まで、わが国の「新劇運動」は、あまりに先走りをしすぎてゐた。「運動」の発生に必然性を欠き、その方法に結果の予測が含まれてゐなかつた。それは、「運動のための運動」にすぎなかつた。被治者のない政治であり、本隊のない前衛であり、そして、空腹にヂアスタアゼである…

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